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あなたは「神」を信じますか? 『科学者はなぜ神を信じるのか』
HONZ
S Motohiro zetumu
他の事は兎も角神マスター言うてるのだからこれにはね笑。 以前コチラにもざっくり書いたけど。 https://newspicks.com/news/2773791?ref=user_383075 そもそも何を以て神と言っているのでしょう?。 UFOがあるかとかいうのあるけど。 そもそもUFOは未確認飛行物体の略なので、確認出来たらUFOという定義そのものに反する笑。 同様に神とは何かを定義せんと信じるも信じないもない。 そして信とは何かもね。 この記事的には何もない所に宇宙を作った存在の事を神と呼んでるみたいだけど。 でもその後は物理法則が只あるだけというのであれば、別に改めて宗教はいらんだろ笑。 私は普段から神とは主体性と普遍性だよと。 まあこれは一般向けのざっくりとした言い方だけど。 物理法則はこの物理宇宙全てに通じてあるが故に法理足り得る。 でも何も無い所にそれが成立したのであれば、成立の主体が必要。 故に主体と普遍が神と。 故に主体と普遍は常に共にあり。 という事は今でも世界は法理に拠って成り立っているのだから、主体も常にある。 それは全てに通ってあるが故に法理も成る。 つまり法理側から見れば世界の中に常に主体が。 主体側から見れば常に法理を成らせ。 前者から見れば世界の中のあり方は法理に従い。 後者からすれば主体が法理を成り立たせる。 故に神がいるとかいないとか自体がナンセンスで。 世界が成り立っていること自体が神。 そして信とは何か対象を信じることではなく、その主体が世界を成り立たせること自体を言う。 科学自体が世界が法理に拠って成り立っている前提でなければ成り立たない。 そして物理宇宙だけではなくこの世界そのものが同様に。 その主体そのものを自ら自身の事として捉えるが故に、神道ではミコトと。 仏道の悟りである法界智はその入口。 まあ上に書いた神の定義も本当は神そのものではなく、神の顕れである神霊と神の法理である神法レベルなんだけどね。 何故主体と普遍がというのがあるから。
115Picks
民主主義社会的死刑
note(ノート)
S Motohiro zetumu
まーたいつの間にかPickされてる(^_^;。 単にコメ欄に入らなかったのでnoteに書いてコメ欄にリンク貼っただけなんだけどね。 NPの仕様は仕様としてクローズドサロンとかなら兎も角、ネットにオープンに出された時点でコメ自体がメディアであるというのが私の考え。 NP自体がネット上の記事を好き放題にPickしてそれにコメを付けるというシステムなのだから、でもそれには意見は言うなというのはそれこそ非対称なのではないかな?。 ユーザーは運営が許容する範囲で自由にネットサービスを様々な形で使う自由がある。 noteをファーストPickしてそれにコメを付けるというのも。 その逆だと私刑だというのはどうなのかな?。 ネット上にあるものに意見を言う事自体が暴力なら、NP自体が暴力装置という事になる。 只名前を出す必要があったのかと言うと適切では無かったかもしれないですね。 個人名は消して置きます。 不適当コメだと判断されたら削除されるでしょう。 「暴力」を独占というのであればそれがそれに当たるでしょう。 言論統制されている中共の様なあり方であるべきという事かな?。 民主主義社会に於ける刑法刑罰は応報としてではないからこそあの様に書いたつもり。 民主主義的考えに拠ってこの国の国家社会は成り立っているのでそこが基準だよと。 そして実際の被害者感情と大衆的被害者感情は分けて。 そこは同意。 そして民主主義社会的考え方として、実際の被害者以外の者達が死刑因を刺し殺す権利と義務が公共価値として導き出されるのかと。 民主主義国家に於いては国家機構は全て国民の信託なので本質はそういう事に。 民主主義は万人の闘争を避ける場合、自然状態として導き出されるもの。 多数者専制が民主主義ではない。 民主主義社会の進展とは、それぞれの普遍的基本的人権が如何に擁護されてあるか。 公共的社会契約、普遍的基本的人権の相互尊重性が人間性を無視するものであると捉えられているということかな?。 それは人権制約ではなく尊重故。 だからこそ刑事刑罰も正当性を持つ。 法はその落とし込み。 例え立法と最高裁の判断がどうあれ完成された民主主義社会など存在しないのだからよりそういった視点で。 それが進展に繋がる。 だからNPで遊んでるのも止めました笑。 いつでも私的神社参拝案内するよ笑。 note 追記1・2・3
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こんなにもたくさん死刑が執行されて、一人の法律家として思うこと
note(ノート)
S Motohiro zetumu
コメするの久しぶり笑。 まあこれについてはコメをここでする価値があるかな。 日本国憲法の拠って立つ普遍的基本的人権と公共的社会契約という前提があっての罪刑法定主義。 罪の重さというのは普遍的に決まっている訳ではなく、絶対君主制に於いてはその体制の転覆を図る事が重罪で死罪に値する。 死刑が殺人にのみに拠るという訳ではない。 国家が刑事罰として罪刑を法定して課す事ができるのは国家が社会に何を負託されてあるかに拠る。 日本の場合は上記の民主主義思想に基づいた社会国家がその拠って立つ所なのでその視点で見る事が必要。 なるべく問題が出ない様にが冤罪もあっても仕方がないというのでは、全く民主主義的価値に反するしね。 刑事罰というのは公共社会契約価値を以て課される。 殺人は普遍的基本的人権の侵害の最も重いものなので、公共的社会契約的に最も重い刑罰となる。 他者の命を奪ったのだからそれを自身の命で贖えというのは、民主主義的公共社会契約価値ではないよね。 それなら仇討ち権を民事で付与する方が理に叶ってる。 それを公共価値で取り上げたのだから、それを国家が代執行というのは変な話。 それなら被害者側が死刑を望まない場合は死刑を課すべきでないとなる。 罪の重さに罪刑を、というのは社会契約価値の何を守る為なのかに拠る、民主主義社会では。 多分何だかんだで死刑については日本の場合「被害者感情」に拠ってある様に見える。 ここでいう「被害者感情」というのは実際の被害者の感情ではなく、社会全体に於ける大衆感情の事ね。 つまり実際の被害者そのもの以外には、市中引き回し刑の一種のバリエーションの様に見える。 被害者以外も石をぶつける権利をという様な。 オウムについては、存在そのものが脅威として、死刑者以外も抹殺したいのではないかな、その大衆「被害者感情」的には。 大衆的「被害者感情」というのは共同体的価値ではあっても民主主義的価値ではない。 見てると死刑制度擁護論者と反民主主義的価値擁護者って、かなり被るんだよね。 逆に、民主主義思想社会が浸透した国程、死刑制度廃止している傾向にあると思う。 結局日本でこれだけ死刑制度擁護が多いというのは、民主主義的価値がそれだけ日本では浸透してないからではないのかな?。 完全版 https://bit.ly/2AdqBF3
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【新春Column】現代の死刑制度存廃論争に一矢報いる【直言居士】 : 「次世代グローバル政策研究フォーラム(NeGPS)」OfficialSite
「次世代グローバル政策研究フォーラム(NeGPS)」OfficialSite
日本人がいつのまにか忘れてしまった「神社」の意味とは?
現代ビジネス[講談社] | 最新記事
S Motohiro zetumu
神社参拝コンサルタントの私が通りますよ。 パリではっていうけど、日本は今でも凄くそこかしこにそういう場があるよ。 普通の神社や寺だけではなく。 なんか小さな祠とかも今でもそこかしこに。 でも「体感」としてというのは確かに薄れているかもしれない。 キチンと向かえば、キチンとした神社さんなら物凄く通りを感じる事が出来るだろうけど。 最後の「だったら国民は、祈っているだろうか?」はその通りで、天皇に向かいを丸投げしてる様ではダメで。 世界との向かいは、それぞれが直にだから。 本来神社とはそういう場としてある。 神社の古い祭祀形態である磐座とかは、本来触るものとしてあったと思うんだよね。 何故巨石とかが多いかというと、神を通し降ろしても耐えられるものとして。 別に巨石そのものが神というわけではない。 その通りが神として。 それがチャージ装置としてあったと思う、本来は。 だから神そのものをこの身体に通し受けるというのは、極めて大事なんだよね。 そしてそれが本来の「ミコト」。 身のコトとして。 そしてスメラミコトとしてある者が全てをその様に。 でも天皇はオホキミとしても。 オホキミかスメラミコトか。 これが入れ替わり続けて。 でも本来のスメラミコトは血統などでは繋がらない。 本当の皇神の捉えがあって。 そしてその捉えがあればその者がスメラミコト。 仏法仏道はそこに繋がるものとしてある。 でも今はまずは近くの神社さんをかかりつけ神社として世話になることをお勧めする。
18Picks
周囲にNewsPicksをお薦めできる?ユーザー学生座談会『僕ら「意識高い系」じゃありません』(vol.3)
note(ノート)
S Motohiro zetumu
この1年は殆ど見ず、偶に仏教とかでオカシナ事記事とかあると、その為に書く位だけど。 降臨祈願されたので笑。 まず一つ言っておくと、NPはそもそもSNSではないよ。 オールドタイプ商用メディア。 コメ欄はその為の宣伝媒体である事は以前明言されている。 だから言論空間ではなくAmazonレビュー欄に近い位置付け。 長年使っている方はその事を認識した上でそれに合わせたコメをしている。 私は合わせる事が面倒なのでほぼ辞めたけど。 別に営業妨害するつもりもないしね。 こういった記事も新聞広告とかである、宣伝としての新聞の利用の仕方とかと同種のプロモーション。 そこをまず認識して置いた方が良いだろうな。 そうするとコメの見方も仕方も変わるから。 そしてそうでないと「乗せられ」「意識高い『系』」で終わるよ。 意識高い「系」というのは、別に社会的ハイクラスをという事では無いよ。 情報に乗せられるが故に地に足が着かず「系」になる。 本当に意識が高い者程徹底して地に足が着いてある。 その事が分かった上でなら何でも使いようはあるけどね。 情報も見えてる事から見えてない事を観てこそ意味がある。 それがリテラシー。 それには一旦フラット化してそれを自らなりに構築して行く事が必要になる。 その為の材料としてどうコメとコメ欄を利用するかは自ら自身次第。 まあこのコメは見えてないけどね笑。 1000文字行かなかったけど、まあこれ以上書くと営業妨害にもなりかねないしね笑。 あ、既になってる?^^;。 そこを考えるのが嫌にもなったんだけどね。 でも出会い系としては優秀だと思います。
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世界の富裕層や成功者が「座禅」にハマる理由とは?ジョブズ氏も実践
ZUU Online|経済金融メディア
S Motohiro zetumu
座禅と坐禅と座っての瞑想はそれぞれ違うものなのだが・・・。 そもそも禅とはが分かってないと。 元々はサンスクリット語のディヤーナ [静慮]の音写訳の禅那からだけど。 でも達磨に始まる禅は、禅定の禅。 それは何も思念がなくなる状態の事ではないよ。 思念は非認知領域から認知領域に湧いて現れて来たものでしかない。 本当の禅定は、非認知領域そのものに入る事から。 その入り口が臨済宗で言う見性でそれを透過で深めて行く。 そこに入ってだと、認知領域に湧いてくる思念そのものは、非認知領域と認知領域の出入りを観ているに過ぎない。 だから白隠は動中の静と言った訳で。 座ってではなく、如何なる時に於いてもそうあれるのが、坐禅。 座るではなく、主人公が自ら自身に坐ってある。 そこから止観も成せる。 座禅はその主人公を真ん中にということを修する為のもので、だから道元は只管打坐と。 師はそれがキチンと真ん中にあるかを見る。 仏道をならふというふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。 とはそういうこと。 だから道元は眼横鼻直と。 実際、道元の正法眼蔵読んだら判るけど、延々と仏法視点から見たあり方をあらゆる事について言い続けてるだけ。 顔を洗うことから座り寝ることまで。 座って何も考えない様に瞑想する事は別に達磨的な意味での「禅定」ではないのだから、そもそも「禅」というのは違うでしょ。 元のサンスクリット語的な「静慮」というのであればまあ分からんではないけど。
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"哲学の入門書"が死ぬほどつまらない理由 - 重要なのは、結論より「プロセス」
PRESIDENT Online:「仕事人×生活人」のための問題解決塾
S Motohiro zetumu
うん、この記事自体が面白くないわw。 逆に面白い哲学の入門書は結構あるけど?。 思考のプロセスが面白い訳がないんだよ。 延々どぅ繋がって行ってるかを追うのって面白いか?。 面白いのは発想なんだよ。 え、こんな視点がというのが面白い。 後は延々その視点から発した組み立てを繋げて行くだけ。 そんなの面白い訳がない。 この記事が面白くないのは、発想の所が陳腐なのに、延々繋げて行く事を書いてるから。 繋げて行く事が面白く感じるには、ストーリーが必要なんだよ。 それは別に物語的なという訳ではないよ。 繋がって行く美しさ。 自身の思考を誘導してくれる様にある時にはそこに入り込む事が出来る。 でもそれには、そのストーリーを追える力が必要。 それを入門レベルでとなると、余程上手くエッセンスを巧みに繋げて行かないとダメ。 本当は哲学者自身が思考する時ですら、本当はそうなはずだよ。 発想と、そこから繋げて思考を上手く紡いで行ける時は、楽しい。 ある意味至福。 それは説明的なものではない。 思考に流れる音楽に等しいかも。 自身の思考を楽しく語れる者の話は分からなくても楽しいよ、私は。 楽しさが溢れてる。 その語りに。 楽しくないなら、語る者がノッてないのだよ、そもそも。 因みにノッてる者に分からない事聞くと、また万言で返ってくるからね。 そういう溢れ出ものとしてあってなんだよ、楽しさって。
352Picks
オーストリア人神主、神道を語る──受け入れ、アレンジしながら、何千年も受け継いできた日本人の知恵
Mugendai(無限大)|新たな視点と最新の動向を提供するWebメディア
S Motohiro zetumu
ついでに久々に見てたら良い記事。 神道は文字通り神の道。 人道ではない。 世界の普遍とそれを成り立たせる主体の筋道。 神社はそれがローカルな土地に通ってある所。 勿論普遍だから、当然全てに通ってはいるのだけど、元々。 只本当の筋道そのものとズレずにあるかどうかということ。 神は常に自ら自身を禊ぎ祓いして、それを通し成す。 それをローカルな土地に於いても通し成す。 よく神社で参道の真ん中は神の通り道だから通らない様にとか言うけど。 それは筋道としてある神を真ん中に置いてという事をわかり易く示すものとして言うと思う。 神道ではないが、中国の古典の中庸に堯が舜に伝えた言葉がある。  「允(まこと)に厥(そ)の中(ちゅう)を執れ(とれ)」 これが神道の本質だと思う。 真ん中に常に本当の筋道を通し成す。 只、そこから下り更に舜が禹に伝えた言葉では、これに更に加わり。  「人心惟れ危うし 道心惟れ微なり。惟れ精惟れ一」 が前に付く。 真ん中に通すだけでは伝わらなくなった、人心が出て来て。 だからこそ畏こむ。 本当は参道の真ん中を歩けるだけ、自ら自身の真ん中に通してあるべき。 だがそうあることが難しくなったから畏こむ。 ホントはゴータマが言った八正道も儒教の非礼見ざる聞かざる言わざるも同じこと。 本当の筋道そのものを捉えてある様にと。 それを常に通し成せてあるのが神道。 神社で真っ直ぐ直にというのは、それを世界そのものから自ら自身に通ってあることをということ。 自分が中心で、それに何かプラスを貰うということではない。 太極をこそ取り、そして形としてある陰陽プラスマイナスをそれにより紡いで行く。 形として示すのはその為。 無形有形。 ホントに普遍の筋道道理に於いて全てはある。 それを常にというのが神道。 そしてそれに向かう場が神社。 因みに、私は宗教は2つの側面があって。 開祖レベルの世界そのものと向かい普遍の筋道を自ら自身で捉えと。 人間コミュとしてのもの。 メンバーシップ型は後者。 共同体主義は神道そのものとは違う。 さて、日本は本当の神道としてあるかな?。
399Picks
高城剛はなぜ「次世代の瞑想」に注目するのか
NewsPicks編集部
S Motohiro zetumu
NP毎日見る程暇ではないので全然見てないけどタレコミがあったので久々に。 もう政治や経済の事をまともに語る所ではないと思っているので、こういう事だけだな。 こういうのはキチンとした体系があるので、それを踏まえずにつまみ食いでやるというのは危ないだけ。 それも薬物摂取の上でなど。 心と身体を捉えるというのは大切だが、それを個人の枠の中でやると却ってバランスを崩す。 仏教の密教などで大慈悲心とかを言うのは単なる精神論ではない。 世界そのものの普遍的あり方との繋がりを捉える為の道筋としてそれが必要だから。 私がキチンとした神社などで、しかもそこに通ってあるのと直にというのを推奨するのは、それの方が安全性が高いから。 宗教の開祖レベルは皆、直に世界そのものと向かいそして自ら自身そのものでそれぞれ世界の普遍のあり方を捉えて。 薬物に拠ってなどという者などいない。 確かに非認知領域の最初の入り口の禅で言う見性体験は、白隠が自身の体験を語っているように強烈なもので、脳的には脳内物質がドバドバ出ているだろうか。 それは入り口にしか過ぎないしその体験自体は本質ではない。 だから白隠も穴グラ禅坊主と叩きのめされた訳で。 そこからホントの心そのものの普遍を捉えそれに拠り身体を修めるまでは階梯がある。 それはこんな方法で成されるものではない。 密教の修法の前提は世界そのものの普遍を真ん中に通し置いてこそ。 それを個人で保つというのは、まあ普通は個人の力では難しいよ。 だからこそ法然は個々のあり方を見て取る阿弥陀を通してしか成仏は出来ないとイイ、そして親鸞は阿弥陀の絶対性に拠る事を言った訳で。 自分という枠を前提に、こんなことをやれば危ないだけ。 本当に世界の普遍そのものが自ら自身に通ってあるという前提に拠らないと。 その上で密教だと金剛頂として瑜伽(ヨガ)の修法を示すが。 普遍性の不壊を以て金剛(ダイヤモンド)に例える。 それの通りと向かいがなくヨガ的修法というのは、心と身体を普遍的筋道に則ってではなく、コントロールを失い、また危うきと感応してしまう可能性が高い。 こういう自分の中に埋没する様なあり方で、ヨガ的方法を行うべきではない。 実際の心と身体での体感は大切だけど、だからこそそれはキチンとした普遍的あり方に於いてであるべき。 完全版 http://bit.ly/2HMUGue
794Picks
高僧の「悟り」をデータで分析、イノベーションは五感のどこと関係するのか
ビジネス+IT
S Motohiro zetumu
いつも言ってるけど何で自身で悟った事が無い者が語るかね笑。 禅で悟ったとあるのは次の階梯に進んだという意味であって無上正等正覚に至ったという意味ではない。 そして五感がというのも違うな。 意識が外れる瞬間に気づく。 それは五感が契機とは限らない。 それまでの階梯のギリギリ限界まで至った時に、そこから意識が外れてその瞬間に次の階梯のあり方に入る。 それを禅では透過というが。 それまでの捉えそのものの向こう側の捉えに入るが故にその様に。 でもそれは元から向こう側のあり方からの通りがこちら側の捉えに通ってあるから。 密教や神道はそれに拠って通る。 但し筋そのものは違う。 本当に次元を超える時はそれまでの通りはまるで役には立たない。 只筋のみがその通りを成す。 ゴータマが仏法の悟りに至ったのは乳粥を飲んだ時、白隠はコオロギの声を聴いた時。 その瞬間、空海が言う一道無為の観世音の内観から意識が外れたから、世界の通りに気づいた。 禅の無の字などの捉えである、最初の見性体験は強烈な歓喜があるが、これは体験談とかもチョクチョク見る。 白隠も書いてるけどね、その時の事。 この直前には、目の前の者と話しても、数百メートル先と話してる様な感覚になるんだよね。 最初の見性の時脳内麻薬がドバドバというのは、その通りだと思う。 それで見性体験した者が、麻薬体験と同じ、と言ったからヒッピーとかで麻薬が流行ったというのは聞いた覚えが。 でもそれは見性の本質ではない。 それは非認知領域への入り口。 無上正等正覚に至り仏法界を捉え成すまでは階梯がある。 だから禅話で悟ったと書いているのを、無上正等正覚に至ったとは捉えるべきではない。 逆に仏法の悟りに至った時は歓喜よりも一人じゃない事が分かるよ。 仏法の悟りから仏道の華厳の悟りに入るのは、空海の十住心論の第九住心に詳しい。 あれ自身の体験に合わせて経典を切り貼りしてるだけだから笑。 でもそもそも仏法仏道的悟りというのは人間的認知の事ではない。 そうでないと山川草木悉皆成仏って成り立つ訳もなく。 草木がどうやって人間の脳作用の様な認知をするんだ?。 本当の仏道とは世界そのものの理と全てが繋がってあるということ。 その示しそのもの。 世界の理の通りだから草木にも当然通る。 だからその様に言う。 まああくまでもそれは世界そのものへの入り口だけどね。
270Picks
宗教の“良いとこ”だけをつまみぐい、これってどうなの?|ニセ司祭が式を挙げても気にしない日本人
クーリエ・ジャポン
S Motohiro zetumu
いつも言ってるけど、開祖レベルの宗教と人間の宗教コミュは別のもの。 開祖レベルは世界そのものと向き合い、そしてその世界の自らの捉えを語る。 だから科学とて元は神学の一分野。 コミュは別に他の共同体コミュと変わることはない。 だが世にあることに理がないことはない。 その理の捉えがあるかないか。 別に仕組みは知らんでも、機械は使えるからね。 そういう様に作ってあれば。 人間コミュだって意識しようがしなかろうがその中で過ごしている。 宗教儀礼とて、元は意味がキチンと組まれてあっても、只その形だけを行っていたりする。 でも見てれば分かるけど、その者の向かいによって通りの出て来方は違う。 只の社会風俗慣習だと言っても、見てればそれぞれ。 只のイベントという者にはそうであり。 初詣とかでも真面目に参拝する者はしてる。 それらを全て包摂して世界はある。 只アホらしいのは、理そのものの捉えが無いのに、形だけに拘ってあること。 それは只の強迫観念。 でも人間の個我の自意識とて本当に理を捉えることなく、只執着として固着しているのが大半だよね。 それが自分教。 それが国家教だったり。 会社教だったり。 インスタ映え教だったり。 何でも受け入れる日本はっていうけど、表層はそう見えても、深層はより強固にそれがある。 本来は理そのものを捉え、そしてその様な固着そのものを解いて行くのが真っ当だろうけど。 でも只固着を基盤とした自己増殖をしていくのであれば、それは只のキメラ。 表層だけのハリボテとなる。 礼の無い儀作法には意味はない。 只そうは言っても、意味など捉えなくても結構強固に色んな方向から、理の通りも、逆に固着の縛りも、どちらもそれぞれの者に作用してあるからね。 その狭間に漂ってあるのが多くであるのではないかな。
248Picks
ご神仏のメッセージを受け取れる尼僧が教える、 神さま、仏さまは本当にいる!その証拠となる現象とは、こんなこと! - 神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと
Diamond Online
S Motohiro zetumu
呼ばれた気がしたので。 嘘です笑。 ある方が多分私のこと言ってるよ、とお知らせがあったので笑。 久々に。 あけましておめでとうございます(^.^;。 これを「不思議」と取るから大喜利になる。 逆。 不思議ではなく真実をというのが本当のポイント。 最初にそう書いてるでしょ?。 普通は「意識の持ち方で今までスルーしてたことに目が向く様になったのでしょ」位の捉え方だと思う。 これは半分は正しい。 世界は理に拠って成り立っている。 どんなことでも。 それは物理宇宙だけではなく、全てに於いて。 人間の気持ちや意識も。 理に拠らないものはない。 只、世界そのものは元は何も無い所に成立している。 だから主体性が必要。 私が神は主体性と普遍性と言うのはそういう意味。 主体性は普遍性とセット。 その世界そのものの理視点で見ると、個人の自意識もその周りのことも区分はない。 どちらにも理は通じてある。 それが神視点。 どこか別の所ではなくあらゆる事に全て理は通じてある。 その理そのものの捉えで全てを整えて行けば、全ては自ずから整合していき上手く回る。 逆にズレると上手く回らない。 人間個人の自意識は普遍的ではないから、だから普遍的主体性に向かって意識を向ける。 その通じの中に気づきもあり、また理に通じがあるので整いもある。 またズレも感じたりもする。 それが自意識、そして個人が世界と別にあるという誤まった捉えをすると、それに気付かない。 世界そのものの整いともズレる。 世界にいるのに世界のことに気付かない。 只自分の引きこもって閉じた中に。 でも世界にいることは変わらないけど。 半分正しいと書いたのは、意識に世界の繋がりとの捉えがあるかないか。 無ければ大喜利に。 あればこの方が言う様な気付きにということだろうね。 神はいないということは、世界には理も形成もない、というのと同義なのでそれ自体がナンセンス。 まあでも普通に思われている神は意識に映った投影としての識神なので、それはいないというのは正しいけど。 つまり意識に映ずるものは全て何かの投影ということでもあるけどね、それは。
神さま仏さまは実在している!ご神仏のメッセージを受け取れる尼僧が教える、見えない存在を実感した、本当にあった不思議な話 - 神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと
Diamond Online
S Motohiro zetumu
こっちの https://newspicks.com/news/2773791?ref=user_383075 ついでに。 物事は潜在と顕在がある。 人間の意識にも非認知領域と認知領域がある。 当然全ては理として繋がってある。 象意を捉え大きく現実化する前に如何に捉えられるか、そして対応できるかで出て来方は変わる。 もっと言うと理そのものを捉え、そしてその理そのものを扱える様になるともって変わる。 物理世界のことは科学として利用しているのに、それ以外の所の理のあり方を利用しない方がだからそもそもナンセンス。 キチンと理の体系があるよ、あらゆる事には。 それを如何に捉えてあれるかで、自身のことも変わる。 だから筋道のあり方を見ることがあらゆることで大切だということ。 人間の意識に於けることと、実際のこととて当然同じこと。 分ける必要自体が元々ない。 只普通は個我意識を真ん中に置くから、それ中心で見てしまって理中心にみるということができないだけ。 個我意識など別に常に変わるものなのは、誰でも知ってることだけどね。 その上で言うと、それぞれの事がどの様にあるか。 常に理があらゆる事に通じてあることは自明なのだから。 それをどう象として捉え得るか。 易に梅花易占というのがあるけど。 これはありとあらゆることの象意を捉え、それが何を示しているのか見る占法。 まあそれをどういう様にというのはあるけど。 その捉えの通じと力がより通ると、あらゆることから気づきを得られる。 でも中々そこまでは難しいから、易を立てたりおみくじを引いたり。 でもそれ以上に、世界の筋道そのものを自ら通し捉えれば、それそのものとやり取りとしてそういうツールも使える様になる。 結局はだから世界そのものの理を如何に自らそのもので捉え得るかに拠る。 ま、実際そのものはトコトン自らで捉えていかんと分からん。 因みにどこの地蔵でも同じとかいうのは半分正しく半分間違い。 基本のあり方は同じだけど、出て来方はそれぞれ違うので。 でもネットワークがあるので、いつも行く所でここ行くのでと相談すると、見えない所で紹介みたいなことはある。
NORMAL