宗教の“良いとこ”だけをつまみぐい、これってどうなの?|ニセ司祭が式を挙げても気にしない日本人
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いつも言ってるけど、開祖レベルの宗教と人間の宗教コミュは別のもの。
開祖レベルは世界そのものと向き合い、そしてその世界の自らの捉えを語る。
だから科学とて元は神学の一分野。
コミュは別に他の共同体コミュと変わることはない。
だが世にあることに理がないことはない。
その理の捉えがあるかないか。
別に仕組みは知らんでも、機械は使えるからね。
そういう様に作ってあれば。
人間コミュだって意識しようがしなかろうがその中で過ごしている。
宗教儀礼とて、元は意味がキチンと組まれてあっても、只その形だけを行っていたりする。
でも見てれば分かるけど、その者の向かいによって通りの出て来方は違う。
只の社会風俗慣習だと言っても、見てればそれぞれ。
只のイベントという者にはそうであり。
初詣とかでも真面目に参拝する者はしてる。
それらを全て包摂して世界はある。
只アホらしいのは、理そのものの捉えが無いのに、形だけに拘ってあること。
それは只の強迫観念。
でも人間の個我の自意識とて本当に理を捉えることなく、只執着として固着しているのが大半だよね。
それが自分教。
それが国家教だったり。
会社教だったり。
インスタ映え教だったり。
何でも受け入れる日本はっていうけど、表層はそう見えても、深層はより強固にそれがある。
本来は理そのものを捉え、そしてその様な固着そのものを解いて行くのが真っ当だろうけど。
でも只固着を基盤とした自己増殖をしていくのであれば、それは只のキメラ。
表層だけのハリボテとなる。
礼の無い儀作法には意味はない。
只そうは言っても、意味など捉えなくても結構強固に色んな方向から、理の通りも、逆に固着の縛りも、どちらもそれぞれの者に作用してあるからね。
その狭間に漂ってあるのが多くであるのではないかな。
注目のコメント
高校で青山学院に入って、そこで初めて宗教に触れました。敬虔なクリスチャンをたくさん見てきた私から見ると、たまに言われる「日本人は無宗教なんて嘘だ、神道と仏教が生活に根付いている」というのはあまり好きじゃなく、やっぱり無宗教だと思います。
クリスマスを一大イベントとして楽しみはするものの、イエス・キリストの誕生を祝う人は圧倒的に少ない。私は洗礼は受けていませんが、高校の影響でクリスマスは神聖な日ですので2年に一回くらいは教会のクリスマス礼拝に参加します。そんな私から見れば「牧師でない人がそれっぽく説教し、愛を説く」というのはちょっと理解できないわけですが、宗教にそこまで触れてこなかった日本人からすればそんなに問題ではないのだと思います。結婚式については本人達が幸せだったら良いのだと思います。
そういえば数年前に、ペットが死んだ時にペット葬儀を頼んだんです。当たり前だと思いますけど、やって来た担当者はお坊さんではないです。なのに、紙を取り出して般若心経をなれない感じで唱え始めた時には「ちょっと待て!」と思いました。私は形式的な儀式は求めていなかったので、耐えられなかった。読経は無しで、そのまま火葬しました。
前置きが長くなったのですが(ここまで前置きですw)、宗教の良いところを良いとこ取りするのはアリだと思ってます。ただ、イベントを真似するのではなく「教え」の部分を。教えでなくてイベントだけを真似るのは、良いとこ取りとは違うと思います。
といっても個人的には宗教ごとに、本質的にはいってることにそんなに相違はないと思ってますけどね。そもそもが「信仰」の対象としているわけではなくて、スタイルとか行事とか、いわゆる表面的な部分を真似ているだけですから、「つまみ食い」ですらないと思います。
コスプレと同じノリ。
日本の中にいる限りは、それでも別段問題も起きません。
ただ、その感覚のまま海外へ行くと色々とトラブルにもなります。