世界の富裕層や成功者が「座禅」にハマる理由とは?ジョブズ氏も実践
コメント
選択しているユーザー
座禅と坐禅と座っての瞑想はそれぞれ違うものなのだが・・・。
そもそも禅とはが分かってないと。
元々はサンスクリット語のディヤーナ [静慮]の音写訳の禅那からだけど。
でも達磨に始まる禅は、禅定の禅。
それは何も思念がなくなる状態の事ではないよ。
思念は非認知領域から認知領域に湧いて現れて来たものでしかない。
本当の禅定は、非認知領域そのものに入る事から。
その入り口が臨済宗で言う見性でそれを透過で深めて行く。
そこに入ってだと、認知領域に湧いてくる思念そのものは、非認知領域と認知領域の出入りを観ているに過ぎない。
だから白隠は動中の静と言った訳で。
座ってではなく、如何なる時に於いてもそうあれるのが、坐禅。
座るではなく、主人公が自ら自身に坐ってある。
そこから止観も成せる。
座禅はその主人公を真ん中にということを修する為のもので、だから道元は只管打坐と。
師はそれがキチンと真ん中にあるかを見る。
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
とはそういうこと。
だから道元は眼横鼻直と。
実際、道元の正法眼蔵読んだら判るけど、延々と仏法視点から見たあり方をあらゆる事について言い続けてるだけ。
顔を洗うことから座り寝ることまで。
座って何も考えない様に瞑想する事は別に達磨的な意味での「禅定」ではないのだから、そもそも「禅」というのは違うでしょ。
元のサンスクリット語的な「静慮」というのであればまあ分からんではないけど。
注目のコメント
座禅やマインドフルネスは特にここ数年話題が多いと思います。
ストレスを感じる場面が多いということ以外に、インターネットやスマホの完全普及で情報過多になり自分を見失う人が多い、ということでしょう。
意識的に一人の時間を創りそこで色々考えると頭が整理されて良いと思います。