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給食残してクラスで謝罪、完食指導による心の傷で「会食恐怖症」に 教育現場の実情
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ケースバイケースできちんと都度適切な事情把握に努めた上でそれぞれに対して判断しなければいけないのは言うまでもありませんが。 別に今ここに具体的個人が居るわけではない、木ではなく森を見る視点から素朴な疑問を言わせていただければ。 最近の皆さんのこうした他人に対する接し方の背後にある思慮が本当に適切な意味で優しいのか、相手のためになっているのかが甚だ疑問で、パッシブアグレッシブ推進運動というものがあるならば、それとの区別がつけられないニュースが多い。 ちょっと意味が分からない風潮です。 記事に戻ると、皆の前で謝らせるのは全く謎指導だと思うのですが、その謎具合とそれほど差を感じずにそれだけで会食恐怖症になるのもちょっと容易に理解できる事象ではありません。 いったい自分がどれほど正確に状況を把握できていると考えているのでしょうか。 あくまで例としてですが、皆の前で謝らせる先生が居たとしたら、それは先生がちょっと残念なのであって、自分が悪いのではない。食べられなかったのが問題だというのであれば、では、食が細い子、何人分も食べたい子、それぞれいるのが自然だが、適切な配膳がなされていたのか。きっとなされてないからこうなったので、火のないところに煙が立たないのと同じで、きちんと適切な配膳が行われていれば食べられないという結果は生じなかったのではないか。 等と考えるだけで自分が会食恐怖症になってあげる義理のある事では全くないという見立てを立てることができるようにしてあげる方がよほどその現状にも将来にも社会にも良いように思うのですが。。 改めて、当然適切な認識、コミュニケーションが行われた上でそれでも辛いケースもあり、それはそれで適切に扱われなければいけないのは言うまでもないと表現した上で、それにしては件数が多すぎる。 相当数パッシブアグレッシブ推進運動なだけなニュースも多いと感じています。 誤った認識でしょうか。。。
東大生実践「頭をよくする」たった1つの簡単行動
東洋経済オンライン
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真実味を持たせるために一理を入れておいて後は宗教で押し通す!みたいな記事に見えてしまった。 面倒臭いが原点とか、調べて良い道筋を探すのは、自分で考えて自分のスタイルを確立していく人でもやる事でしょう。 そもそも、上流にも下流にも橋が見えない、民家があればそこに聞きに行くのは当たり前、マンガの例で「さあどうする」と聞かれれば.なぞなぞでもない限り橋も民家も近隣住民も視界内には居ない想像になります。なぜならそれらがあるなら「さあどうする」ではないからです。 人間の視野は数キロメートル、林があったとしても、その林がどこまで続いているのかを数百メートル単位で見通すのは簡単です。 つまりこの例の場合、最低でも数百メートルの移動は必死です。 濡れるのが嫌ならパンツも脱いで渡れば腰まで濡れたところで大した被害にならない。 これらが一瞬で判断つかずに民家を探し始める人がいたらそれはちょっと残念な方なのではないでしょうか。 例えに囚われてると思う方も居らっしゃるかもですが、それを踏まえても、全体を通して適切な自己評価があまり得意でない方の自画自賛的なイメージが拭えない。ちょっとこの記事は一理を入れて真実味を持たせた軽薄、或いは軽率な釣り記事に見えます。 また、調べるからその通りにしか動けなくなる。少し変な言い方になりますが暗示にかかってしまう事も見逃すべきではないような。 それとも私が拾えてないのでしょうか。
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美女・美男図鑑「ルッキズム」批判に違和感も、近大パンフ騒動
産経ニュース
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肯定派も否定派もおかしな事を言っているわけではないでしょうと推測します。 何かに関して、100%良い、100%悪いというものはたぶん無く、見る角度、判断する枠組み、時間軸の範囲等々によって良し悪しは変化すると思います。 しかしながら、一般的に言える事の一つとして、「人間は程度を弁えるのがあまりうまくない。」というのは挙げられるのではないでしょうか。 ルッキズムにしても、例えばルッキズムは悪くないと皆で断定してしまえば、ルッキズムの暴走に繋がり、容姿が良くない人が損を被る事件が増えるかもしれません。 ですから、社会的な観点から良い、悪い、ではなく、大学といえど一旦個人として捉え、個人がこれをしたかったのであれば、その活動に対する世間からの種々の反対を受けながら行うなら、あまり暴走にも繋がりにくいでしょうしで、この程度の事ならそれで良いのかと思いました。 タイトルに「ルッキズム批判に違和感も」とあるように、昨今の、硬直的な定義を定めようとする傾向に私はあまり感心しません。 世界はもっと動的なもので、世界を適切に認識しようとするなら、それらをあるがままに動的なものとして観、しかしそれでいてあたかも静的な事を語るように穏やかにその事を対話できる素養を私たち自身がもう少しきちんと身に着ける方が実りが多いように思います。 という、特に記事にコメントを書く以上の活動に参加する気はない、一読者としての個人的な内的活動と、コメントによる種々の批判という社会的な活動とが両方あって良い。
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