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【ドキュメント】黒人の命が大切だ −Black Lives Matter−
Konno Yasuchika
改めて、この運動を紐解く為に、
歴史を学んでいる。
とは言っても、映画ばかりだけどw
それでも、今の自分にはとりあえず十分なことだった。
「ボクらを見る目」
「13th 憲法修正案13条」
「LA92」…etc
どれもNetflixでみれる
これまでも、色々見てきたけど、それらが思い起こされた。
マルコムX系やキング牧師関連やミシシッピーバーニングも随分昔だか、観てきた。
そしてBlack music、punk、funk、HIPHOPからも色々と学んだことが、改めて繋がってきている。
到底、彼らの歴史には寄り添えないけど、
理解しようとすることが、まず大事なんだと思う。
ひとつ思うのは、
システムや構造、形態で緩やかにこの問題を薄めていくことはできるだろうが、
この問題を経験した人達の根本的な解消に至るには、個々人の心に委ねられていると思う。
そしてそのPointは「許す」「赦す」ということではなかろうかと。
被差別、差別サイド共に、
その奥にある「恐怖」と向かい合いながら…
そして、それらに取り組むには、
なによりも「文化」が必要なのだと私は思っている。
【真相理解】スウェーデン、ロックダウンしない理由
【落合陽一×三浦崇宏】クリエイティビティをアップデートせよ
Konno Yasuchika
アニマルスピリット「合理性のない飛躍」をどう社会(概念でない)の蚊帳の内から実装し、駆動させるかということが、ここに於いては重要なクリエイティビティということ。
(蚊帳の外に具現化したとしても、それが経済の土壌をかき混ぜないものは、相手にされない…)
次回のテーマである「チーム」にも関わる話だと思うのだが、
フォロワーも含めての「チーム」の社会実装力の話しなんだろう。
今回の三浦氏が担ったフォロワーとしての熱量が、
本当に重要だと改めて感じ入った。
(追記)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「分かりやすさ」「大衆が分かるようにする」ことに価値があり、
「分からなさ」には価値がない。
それがあまりにも横行し、その態度が横暴になり、
「分からなさ」の可能性をスポイルさせ、
結果それが「愚かさ」を育んで来たように感じる。
その態度を育てて来たメディアが、
そこを壊していく作業を、
メディアとしての力を保ちながら、
デジタルコンテンツで提示することは、
とても価値があると思う。
そこをズバズバ言い得た三浦氏の提案というか、本音は聞いていて、気分が良かった。
そして、それに隠れていた本音を垣間見せた落合氏の発言も気分が良かった。
落合陽一を
分かりやすさにスポイルさせない。
大衆に迎合させない。
圧倒的な能力を発揮している落合陽一の現場感をそのままに、
分からなさを分からないままに、
見てみたい。
「分かりやすさ」を要求するムードから、
「天才を守る」「能力を守る」
三浦氏がしたことは、そういうことではなかろうかと思っている。
これって、本人が言えないし、言うもんでもない。
落合陽一が自由に、そして深く集注出来る、アジールを、
News Picksが作れたら、
それは強度あるup gradeになると思う。
たのしみである。
とはいえ、私は落合陽一の言ってることの半分も分からないのだがww
ただ、私が藝術や身体の世界に身を置いて、常に「分からなさ」の中に居続けていることで、得た経験や感性は、本当に貴重であり、
可能性は無限大と、よく言われたりするが、
それは常に「分からなさ」の世界に居続けられるかということでもあると。
クリエイティビティをアップデートせよ
Konno Yasuchika
「分かりやすさ」「大衆が分かるようにする」ことに価値があり、
「分からなさ」には価値がない。
それがあまりにも横行し、その態度が横暴になり、
「分からなさ」の可能性をスポイルさせ、
結果それが「愚かさ」を育んで来たように感じる。
その態度を育てて来たメディアが、
そこを壊していく作業を、
メディアとしての力を保ちながら、
デジタルコンテンツで提示することは、
とても価値があると思う。
そこをズバズバ言い得た三浦氏の提案というか、本音は聞いていて、気分が良かった。
そして、それに隠れていた本音を垣間見せた落合氏の発言も気分が良かった。
落合陽一を
分かりやすさにスポイルさせない。
大衆に迎合させない。
圧倒的な能力を発揮している落合陽一の現場感をそのままに、
分からなさを分からないままに、
見てみたい。
「分かりやすさ」を要求するムードから、
「天才を守る」「能力を守る」
三浦氏がしたことは、そういうことではなかろうかと思っている。
これって、本人が言えないし、言うもんでもない。
落合陽一が自由に、そして深く集注出来る、アジールを、
News Picksが作れたら、
それは強度あるup gradeになると思う。
たのしみである。
とはいえ、私は落合陽一の言ってることの半分も分からないのだがww
ただ、私が藝術や身体の世界に身を置いて、常に「分からなさ」の中に居続けていることで、得た経験や感性は、本当に貴重であり、
可能性は無限大と、よく言われたりするが、
それは常に「分からなさ」の世界に居続けられるかということでもあると。
【落合陽一×石山アンジュ】信頼をアップデートせよ
Konno Yasuchika
「信頼」と「信用」の違い。
そして「信頼」「信用」が外在するデータによってもたらされるのか?内在する身体感覚によってもたらされるのか?
そこられんを語る必要があると思う。
生躰研究家からの視点だと、
「からだ」の名残がある人間にとっては、
信頼、信用は、まずまず自分が自身を信頼・信頼出来る「からだ」ないし「他者性」がないと、外在する他者に対する信頼・信用は難しいであろう。
そもそもの信頼・信用の感受性にもよるが、
寄り掛かりや、期待などが混在していると、
どうにも、自身の判断で信頼・信用することが難しく、
外在したシステムによる管理を基盤にしないと成り立たないのではないのだろう。
そうして、それが現社会に実装されて来ているから面白い。
ますますバーチャル化され、ポストトゥルースの次はどうなるのか?
そこに、人間性を希求する人たちの感性がどう渡りを付けていくのか?
興味深い。
【The UPDATE】子供のスマホ利用は制限すべきか
Konno Yasuchika
そもそも、
スマホを持ち操作し意識を持っていかれていると、
躰がせいぜいよくて、胸から上、酷くて鎖骨から上だけになるってことは、
肚腰は無くなるし、無論脚はない(//∇//)
電車で立っていられない子供、
座っても尻が前にずり下がり、グニャりとしている子供…
とはいえ、都会の大人もそうなっているので、
そういう人間達が蠢く社会が、どのように形成され、それをどうテクノロジーが補えるのか?はある意味updateが必然な世の中になるだろうと思っている。
中学?高校?まで空手をやっていて、親父さんの影響もある落合氏の「質量への憧憬」は、その様を暗示していたのではなかろうかと思っていたりするのだが、
これは本人に聞いてみたいところである。
【緊急帰国】メディアをアップデートせよ
Konno Yasuchika
「自身の脳でシンギュラリティを迎える」
そう聴いた時に、釈迦の「空」の臨場感とは、それに近かったのではないかと想像してみた。
そして、臨場感を感じるためには身体は必要なのか否か?
と生躰研究家としてはとても興味深いところ!
身体が機械化しようが、完全に物体・物質化しようが、
脳機能だけがあれば可能なのか?
脳をupdateするのに、身体は不要なのか?
身体の代わりに、シンギュラリティを迎えたAIによって、全く不要なものに身体はなるのか?
「Go Wild」のジョン・レイティーの言う脳の発達と身体の関係や、それら類似した論説は不要の長物と化すのか?
本当に面白い時代になって来た。
士郎正宗の「攻殻機動隊」と木城ゆきとの「銃夢」を思い起こしながら、
私は、四つん這いの躰を改めて見直してみようと思っているw
人類をアップデートせよ
Konno Yasuchika
ともかく面白かったし、小気味好かったし、拾いどころ満載の濃厚なweekly OCHIAだった。
宮台さんが維新派の話から入ったのは、
舞台人からすると、ウフっとしたし、
芸術の「わからなさ」やそれによる「不快、不可解さ」の重要性を説いたのは、「いいね」を押してクズになってもいい程の同意であった。
(ヨーロッパでは、「わからなさ」をしっかり評価出来る文化、芸術への理解があると聞く)
総じて、「躰」を探求するものとして、
宮台さんは、身体性の話をしているのだと私は解釈している。
ゆうならば、「身体力」の衰退が著しいという話だ。
私の言語で言えば「躰の消失」。
そこに対する危機感の話だったと思う。
言葉の自動機械も大いに「躰」が関わる話だ。
輪郭無き、身体の拡張。
仮想現実がその拡張に拍車をかける世の流れ…
「躰」の蘇生、復古を訴えてきたが、
これからは、意識の在り方がキーになってくると思う。
そこで「主導権を渡さない」という意志、意識を、
幾重にも重ねられたバイアスに気付きたながら、
それを丁寧に一枚一枚取り除いていく作業に、
芸術という媒体は貢献し、より重要度を増すのではないかと思うと同時に、
芸術家サイドとしては、よりその質が問われるべきだと、身の引き締まる思いだ。
(とはいえ、芸と術のupgradeを繰り返すのみだが)
人間の定義、人類の定義
それらによって上記で述べた「身体」「躰」の優位度はどのようになるのかは、個人的に興味深い。
宮台さんの「躰」の時代は決して戻っては来ない。
より躰は拡散し、その密度は稀薄になる中で、
人々はどう振舞い、佇むのか?
「新たな人類の時代」はもう始まっている。
ここに対する肌感、予感は、落合氏のアートに反映されてくるのではなかろうか?と思っている。
「質量への憧憬」にその片鱗を私は垣間見ていた。
ともかく面白い時代だ。
NORMAL
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