売上高が30年で400倍となり、2兆円を超えたファーストリテイリング。それでも柳井正会長兼社長はなお高みを目指し、グループを挙げた経営改革のさなかにある。柳井氏は今、正しいことに取り組むと繰り返し話すようになった。数々の失敗を糧にして成長を遂げてきた柳井氏が言う「正しい経営」は何を意味するのか。ファストリはどう変わろうとしているのか。本連載で検証する。

ファストリはユニクロ事業を軸にインディテックス、H&Mに売上高が近づいている。写真はユニクロ原宿店(写真:栗原 克己)
ファストリはユニクロ事業を軸にインディテックス、H&Mに売上高が近づいている。写真はユニクロ原宿店(写真:栗原 克己)

 「我々は今、世界最高のポジションにいるんじゃないかと思います」。2020年10月15日。都内で開いた20年8月期の決算説明会で、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長はどこまでも強気の姿勢を見せた。

 コロナの影響を受けても業績は底堅い。主力業態であるユニクロの国内事業は、緊急事態宣言が解除された6月以降、既存店とEC(電子商取引)を合わせた売上高が7カ月連続で前年実績を上回った。

 1年の半分がコロナ禍に見舞われた20年8月期の連結売上高は2兆88億円。前の期比12.3%減ったが、ライバルのインディテックス(スペイン、19年11月~20年10月で計算)が18%減、へネス・アンド・マウリッツ(H&M、スウェーデン、19年12月~20年11月期)が20%減だったのに比べ、ダメージを最小限に抑えた。

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 主力市場のアジアでコロナ感染が欧米に比べ抑えられているという理由だけではない。ユニクロの服はトレンドを追わず、ベーシックなものが中心。「我々のコンセプトである『究極の普段着』は仕事をする時も家にいるときも着心地が良い。そういう服だから評価されるのでは」(柳井氏)。コロナ下で広がる在宅ワークや非対面といった新しい生活様式が追い風になっている。

 21年8月期の売上高見通しは2兆2000億円と、コロナ前の19年8月期から4%減の水準を取り戻す。営業利益も過去最高に近い2450億円を見込む。米Jクルーや米ブルックスブラザーズなどのグローバルブランド、レナウンといった国内の名門が経営破綻するなか、ファストリの復調は際立っている。

 だが、柳井氏はこれでも満足していない。「私はもっとたくさん売って、たくさん利益を上げようと考えた。高い目標がない限り、イノベーションは起きない」。公表した計画値について「最低これだけは達成してほしい」。同席した岡﨑健CFO(最高財務責任者)の前でくぎを刺した。

日常にあった夜逃げ

 ファストリは今年9月、前身の小郡商事から現在の社名に変更して30年の節目を迎える。20年8月期の売上高は30年前の約400倍。日本の上場企業の売上高上位100社のうち30年前と比較可能な企業のなかで最も伸び率が高い(日経NEEDSのデータから本誌調べ)。

 伸び率2位のヤマダホールディングス(77倍)や日本電産(30倍)などと比べても、ファストリの成長は群を抜く。売上高で前を走る小売業はイオン(8兆6042億円)とセブン&アイ・ホールディングス(6兆6443億円)だけになった。

山口県宇部市の商店街「銀天街」で育ち、大学卒業後は父の店を継いだ
山口県宇部市の商店街「銀天街」で育ち、大学卒業後は父の店を継いだ

 柳井氏はこの連載の最終回として掲載するインタビューで、急成長をしてきた過去を振り返り、「山口県宇部市から世界的なファッション企業が出るなんて、誰が想像できますか」と語っている。そう回顧する中国地方の小都市、かつて炭鉱の町として栄えた宇部を20年末に訪ねてみた。

 父・等氏が個人で開いた洋服店「メンズショップ小郡商事」があった商店街「銀天街」。年の瀬だというのに、人影も開いている店も少ない。炭鉱が閉鎖された後の銀天街は中心市街地の空洞化に打つ手を見いだせなかった。

 小郡商事の店があった場所は今、一角が駐車場になっている。幼少時の柳井氏は従業員とともにここで寝泊まりしていた。「夜逃げする店も見てきた」という。

 「商売に不向きだと思っていた内気な少年」は、そこで商売の厳しさを実体験した。育った環境を振り返った上で自らの過去をこう分析する。「僕が唯一自慢できるのが、失敗しようとも、思っていることを実行してきたことです」

柳井正氏。「唯一自慢できるのが、失敗しようとも、思っていることを実行してきたこと」と語る(写真:的野 弘路)
柳井正氏。「唯一自慢できるのが、失敗しようとも、思っていることを実行してきたこと」と語る(写真:的野 弘路)

2人ぼっちでの品出し

 「失敗は成功のもと」「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」といわれる。だが、柳井氏ほど目に見える失敗を数多く重ね、そこからはい上がってきた経営者は少ないだろう。最初の失敗は23歳のときだ。跡取りとして銀天街に戻った半世紀前に遡る。

 紳士服店とカジュアルウエアのVANショップを営んでいた小郡商事に勤めてみると、「品ぞろえも仕事の流れも効率が悪い」と感じた。早稲田大学政治経済学部を卒業後、最初に勤めたのは父親の勧めで入社したジャスコ(現イオン)。どうしても仕事に真剣に取り組む気になれず、9カ月で退社したが、配属されていたのは創業店の四日市店だった。目にした期間は短かったとはいえ、後に日本最大の小売業となる大手の店舗は活気に満ちていた。

 それに比べると家業の店はどうしても見劣りしてしまう。あれこれ改善策を考え、「こうすべきだ」と言い続けると、6人ほどいた従業員が1人を残して退社してしまった。「激しくぶつかったつもりはないが、正論を言われてついていけなかったのかもしれないし、店の将来性に疑問を持ったのかもしれない」。柳井氏は著書『一勝九敗』にこう書いている。

 後にファストリで役員になる浦利治氏しかいなくなった店で、仕入れや品出し、接客から掃除までこなしていると面白さを感じ始めた。「自分で考えて、自分で行動する。これが商売の基本だと体得した」。父親からは何も言われず、通帳と実印を渡された。25歳になっていた。

 このころ、「洋服の青山」といった紳士服チェーンのほか、ショッピングセンターも台頭していた。「小郡商事は苦戦して、柳井さんも悩んでいるようだった。何年間も『閉店セール』を頻発していた」。当時を知る銀天街の商店主は振り返る。繁盛している婦人服店を柳井氏がたびたび見に行っていた様子を覚えているという。

 転機は1984年に訪れた。広島市の裏通りに開いた低価格カジュアル服店「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」が大当たりした。後のユニクロだ。

 この店が注目を浴びたのは、それまでの洋品店と一線を画し、当時としては斬新なコンセプトにあふれていたため。売り場は倉庫のようで、接客を省くセルフサービス。無駄を排除した店づくりをさらすように顧客に見せつけ、「だから安いのか」と納得して買い物をしてもらう。商品はシンプルで男性用と女性用の境が低い。セルフサービスは当時珍しく、消費者は気軽に入り、楽しみながら洋服を選べると感じた。

 広島の店が成功し、2、3号店と開くうちに柳井氏は気付いたという。「トレンドよりベーシックなものに大きな需要がある」。カジュアル服であれば対象も老若男女に広げられる。トレンドを追い、ファッション性を重視するZARAやH&Mと逆のコンセプトは、このころに形作られた。

 87年には協力工場にオリジナル商品の製造を発注し始め、商品の企画開発から販売まですべて手掛けるSPA(製造小売り)への転換を始めた。自らの手で生産管理まで手掛ければ、仕入れ品に比べ品質を安定させ、商品構成を一貫したものにできるはず。米GAPが先行していた経営形態で、日本で本格的なSPAに踏み出すのはファストリが初めてだった。

 だが、品質はすぐには上がらなかった。ボタンの位置がずれていたり、表地と裏地を間違えていたり。95年10月には「ユニクロの悪口言って、百万円」と新聞や雑誌に広告を出し、実際に抽選で1人に100万円を払っている。人目を引くコピーで知名度を高めたかったのではない。買い手の本音を拾って品質を改善しないと立ち行かなくなると危機感を抱いていた。

 「Tシャツを一度洗っただけなのに首のところが伸びた」「トレーナーを洗ったら糸がほどけた」。果たして届いた1万通弱の意見のほとんどが品質へのクレーム。SPA初期の品質について柳井氏は失敗だったと自己評価している。それでも「自分たちが送り出した商品の失敗を直視し研究、改善する。失敗の連続だったが、そこから次の成功の芽を導き出す」と著書で振り返っている。

 こうした取り組みは徐々に品質を引き上げていった。店舗網も順調に増え、売上高が333億円となった94年に広島証券取引所に上場。750億円に達した97年に東証2部に上場した。

見切りの早さも比類なし

 ここまでの軌跡は、元気な地方企業の成長ストーリーにすぎない。ユニクロの名を一躍全国区にし、アパレルで世界3位となった現在に通じる飛躍の原点となったのは、98年に始まったフリースブームだった。東京・原宿に初の東京都心店「ユニクロ原宿店」を開業。フリースを求める消費者が開店前から行列をつくり、閉店まで入場制限が続いた。

1998年に発売したフリース。SPAの長所を存分に生かし、価格を1900円に設定して爆発的な人気を博した
1998年に発売したフリース。SPAの長所を存分に生かし、価格を1900円に設定して爆発的な人気を博した

 このころには生産量を引き上げてコストを下げるSPAの長所を生かせるようになり、数千円が当たり前だったフリースの価格を1900円に設定した。当時の日経ビジネスは99年度の販売計画が800万着と指摘し、「ファーストリテイリングの実力を世に知らしめる“事件”が起こった」と書いている。

 だが、飛躍の裏では目に見える失敗が次々に発生していた。挑戦したからこその失敗であり、負けを負けと率直に認める柳井氏の姿勢ゆえに目立ってしまった面はある。それでもこのころは行き詰まる事業が頻発し、ファストリの先行きも危ぶまれていた。

 97年10月にスポーツウエアの専門店「スポクロ」、婦人服や子供服も扱う「ファミクロ」という新しい業態に挑戦。専用のロゴも作り一気に9店舗ずつ出店し、両業態とも十数店舗まで増やした。売り上げが予算に届かず、新業態で新規顧客を掘り起こすつもりが、ユニクロとの自社競合が起き、98年5月には撤退を決めた。

 94年末にニューヨークに開いたデザイン子会社も98年7月に解散。現地のデザイナーと東京、大阪、山口に分散した商品企画の担当者の意思疎通がうまくいかなかった。

 フリースの爆発的な販売から、業績も反動減を招いてしまう。2001年8月期の売上高は2年前に比べ4倍近い4185億円、営業利益は7倍の1020億円。ところがブームが一巡した02年8月期は前の期比18%の減収で営業利益は半減した。減収減益は上場来初めてだった。

 「成長というよりも膨張だった」。柳井氏はフリースの成功でファストリが大企業となり、社内に保守的な風潮が生まれたと考えた。打開策として掲げた一手が野菜や果物の販売事業。業績不振の中で新しいことに挑戦する意志を示し、国内の農家と直接契約して流通や販売を自社で手掛けた。

 02年9月に子会社「エフアール・フーズ」を設立。しかし、この会社も1年半後の04年3月、特別損失二十数億円を計上して解散を決めている。「我々は野菜・果物づくりの専門家ではないし、農産物は工業製品のように生産計画通りにはできない」。遅れている日本の農産物市場を改革するとしていた参入時とは逆の説明。「ファーストクロージング」(素早い撤退)と揶揄された。

 それでも素早い撤退は損失を最小限に抑えた。ファミクロもスポクロもそうだった。まず行動し、間違っていたらすぐに修正する経営の繰り返し。柳井氏は著書で「失敗は単なる傷ではない。次につながる成功の芽が潜んでいる。実行しながら考えて、修正していけばよい」と記している。当時の野菜事業の責任者は今、子会社のジーユーを率いて柳井氏の信頼が厚い柚木治氏だ。向こう傷を恐れずにチャレンジする中から人材も育ててきた。

世代交代したはずだった

 「構造改革を実行し、より発展するには独断専行が必要になってくる」。05年7月、都内で開いた記者会見で柳井氏はこう語った。傍らには当時の玉塚元一社長。この3年前、40歳だった玉塚氏を社長に据え、世代交代を進めていた。自身は会長に退いていたが、翻意して社長に復帰した。

 玉塚氏が就任時に掲げた3年後に4000億円という目標は05年8月期に3839億円と未達に終わっている。柳井氏は「解任ではない」と強調したが、海外法人トップのポストを用意された玉塚氏はファストリを去っている。

 世代交代に失敗したファストリの経営に暗雲が漂ったが、この前後からフリースの次を担う商品が徐々に花開いている。SPA化の成果で高級素材のカシミヤ製品を03年、4900円からの価格設定で発売。中国・内モンゴル自治区の生産工場と直接契約し、数万円が当たり前と思われていたカシミヤのセーターに価格革命を巻き起こした。

 1998年に柳井氏が東レに直訴して始めた戦略素材の共同開発が次々に結果を出し、「ヒートテック」「エアリズム」などの素材、超軽量の「ウルトラライトダウン」を世に出した。東レとファストリの取引は2020年までの5年間で1兆円を超えたようだ。

 フリースブームが終わった後、2期連続で減収した後は、利益の浮き沈みはありながらも成長軌道を取り戻し、19年8月期まで15期連続で増収を確保している。この間の飛躍の要因はリーマン・ショックと海外事業だ。先行き不安で低価格衣料品への需要が高まり、中国事業も業績を押し上げた。

 少子高齢化で市場が伸びない国内の店舗数は13年8月期末をピークに毎年減り続けている。ユニクロ事業は16年8月期に店舗数で、18年8月期には売上高で海外が国内を抜いた。20年8月期の国内ユニクロ事業の売上高8068億円に対し、中国本土や香港など「グレーター・チャイナ」だけで4559億円に上る。

 だが、海外進出も当初は失敗の連続だった。01年、海外初進出となった英国では3年間で50店舗という目標を掲げたが、「数字が独り歩きし、店を作ることが第一になってしまった」(柳井氏)。21店舗まで増やしたものの、店舗ごとの収支よりも出店に重きを置いたことで不採算店が続出。05年8月期までに一気に16店舗を閉鎖した。

 海外2カ国目となった中国は02年に進出。翌年までに計8店舗を展開したが、当時の中国の消費者の所得を意識するあまり、日本よりも売価を下げ、場合によっては品質を下げる品ぞろえ。価格や店づくりを現地化したことで、競合との同質化競争に陥り、成功とは程遠い状態だった。

 05年に中国事業の責任者となった潘寧氏は、製品や価格だけでなく、店舗の什器(じゅうき)や設計も日本の最新型とそろえることでリブランディングに成功。中国事業を稼ぎ頭に育てた。

 10年前後には、国内では膨大な店舗の作業に人手不足が重なり、店長のサービス残業が常態化した。「ブラック企業」との批判を受け、入社3年以内の離職率は一時50%を超えている。柳井氏は15年、日経ビジネスのインタビューで「グローバルな成長を急ぐあまり、教育が不十分なまま店長を現場に出したことが原因だった」と述べている。店舗網の拡大に合わせ、「入社半年で店長」との旗を振っていた。

 今回、改めて当時の対応について取材した日経ビジネスに対し、ファストリは「真正面から反省した」(寺師靖之執行役員)と答えている。店長への昇格について「一律半年、一律2年などの基準ではなく、その人にあったスピードで教育する形に変えた。サービス残業は悪という意識も徹底した」(寺師氏)。離職率は大幅に下がったとしている。

 マイナビ(東京・千代田)と日本経済新聞社が21年3月卒業予定の大学生を対象にまとめた文系就職企業人気ランキングでファストリは23位。新入社員の初任給を上げたことも好感され、100位圏外だった前年から一気にランクアップしている。当時辞めていった人たちが心に負った傷を癒やせたわけではない。それでも若手社員を通じて大学生に伝わる情報が、かつての負のイメージを拭いつつあるようだ。

 「何が本当に正しいことなのか、常に考え、これから起きることに対応していきたい」「自らの原点に立ち返り、より正しい経営を行う」。20年4月9日。首都圏などで緊急事態宣言が発令された直後の決算説明会で、柳井氏は「正しい経営」に取り組むと語った。

 日経ビジネスの今回のインタビューでは「正しいとは、ごまかさないこと」と話した。ごまかさずに失敗と向き合い、それが30年で売上高400倍という高成長を導いた。

 売上高はアパレル業界でインディテックスやH&Mに次ぐ3位。両社を追い、さらなる高みを目指すうえで、社員を同じ方向に動かすために経営の背骨として掲げたのが「正しいこと」。ファストリは今、この旗の下で何に取り組んでいるのか。本連載の次の回で見ていく。

[ウェビナー]ユニクロ 強さの源流
1月27日夜8時 一橋ビジネススクール教授・楠木建氏と社史研究家・杉浦泰氏が解説

 DXやAI、サブスク……。新しい技術や急成長するビジネスが登場するたびに、世間にはバズワードが流布する。だが、持続的に成長していくには、ブレない経営の軸が必要だ。「同時代性の罠(わな)」に惑わされないための、60分の思考訓練。毎回、注目企業をケースに、一橋ビジネススクール教授の楠木建氏と社史研究家・杉浦泰氏がウェビナーでライブ解説する。

 今回取り上げるケースは「ユニクロ」を展開するファーストリテイリング。その強さの源流はどこにあるのか? 日経ビジネスが掲載してきた膨大な数のファーストリテイリング関連の記事などを基に、近過去に遡って戦略の本質を見極める楠木・杉浦両氏提唱の「逆・タイムマシン経営論」で同社の強さを読み解いていく。(ウェビナー詳細はこちら

■開催概要
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    ユニクロ 強さの源流
開催:2021年1月27日(水) 20:00~21:00
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