自己啓発本はなぜクソなのか?〜『闇の自己啓発』から「学べる」こと

「成長」という考え方のヤバさ

読書界で大きな話題になっている江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』(早川書房)。その魅力を作家の大滝瓶太氏が語った。

自己啓発本を手に取る瞬間

そこそこにトガった読書好きならだれでも(?)自己啓発本をバカにした経験はあるだろうし、ぼくはその時期を乗り越えて本格的にバカにしつつある。むしろ憎悪をもって滅ぼそうとする勢いですらあるわけだけど、人生で一度だけ書店の自己啓発本の棚に長時間立ったことがある。会社員1年目の夏だ。

当時、ぼくは大学院の博士課程を単位取得中退し、博士論文も書けず職業作家にもなれず専門とはほど遠い商売の中小企業に営業職として入れてもらった。そこでは社内のひとも顧客も、これまでじぶんが付き合ってきたタイプの人間とはまるでちがっていた。「人間力」ということばに代表される反知性的な人間信仰のようなものが蔓延(はびこ)っていて、かつ営業成績も全然ダメで、年次がひとつ上の先輩社員にいびり倒され、メンタルが完全にいかれて両手から蕁麻疹が出てきたりした。

ただこうしたことは就職活動時に「じぶんに最も適正がない仕事をしよう」と決めた段階から予想できていたことではあった。それなりに辛いおもいはするだろうなとおもってはいたけれど、予想と実際に経験するのとではまるでちがっていて、どうにか環境に適合しないといけない、じぶんを少しでも肯定できる要素を見つけなければならないと本能的におもっていたのだろう。その結果、書店の本棚で自己啓発本に手を伸ばしたのだった。

〔PHOTO〕iStock
 

が、結局買うことはなかった。

いくつかパラパラと立ち読みしてみると、なんだかバカみたいな気持ちになってきたからだ。目次には汗臭いアフォリズムがずらりとならび、本文を読んでみると誰でもちょっと考えればわかることしか書いていない。何より、そもそもそれらの本が絶対的正義として主張する「成長」がどうにも胡散臭いものに思えてならなかった。

なぜ「成長」しなければならないのか?

そもそも「成長」とはなんなのか?

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