2021.01.15
# 学校・教育

消費された「学術会議問題」…いま日本の大学が忘れつつある「大切なこと」

「京大100人論文」が問うもの

学術会議問題、覚えていますか?

残念というべきか、然もありなんというべきか、一時期に比べていわゆる学術会議問題を扱った記事を目にする機会は減少傾向にあり一山越えたように思います。

もちろんこれは納得できる回答が得られたとか解決の糸口が見えたという意味合いではなく、消費される話題としてのことです。

2020年12月、政治側(というか自民党)と学術会議側から改善案、改革案が出されましたが、内容がどうであれそれらが実現するところまでいってはじめての改善、改革ですので、関係者にとってはここからが正念場なのでしょう。

〔PHOTO〕iStock

ことの発端の実態としてはテクニカルな手続き問題。背景にわかりやすい二項対立があるためか、バブルのように一気に話題が膨れ上がりました。

政府を糾弾する内容や、学術会議を怪しむ内容、ちゃんとこれまでの政治や学術会議のあり方を反省する内容や、詳細な歴史的経緯を述べる内容……様々な論が入り乱れましたが、初めて知ることも多くとても勉強になりました。

 

ほんとうの「自由」とは「孤独」?

今さら、論者らの言に付け加えることは何もありませんが、「学問の自由」に関して述べられたものの中には、どうしても気になるものもあります。

力不足を認めつつも考えておかなければならないことと思って自分なりに記しますが、言うまでもなく、自分以外の誰かやどこかの組織に「あなたは自由です」と認められてようやく獲得するような「自由」は、ほんとうの「自由」ではありません。それは「権利」に近いものでしょう。

そのような許可や認定を受ける遥か手前から、我々は「自由」 です。社会や制度はつまるところ人間が作った(作ってしまった)人工物であり、そういう人工物がどうのこうのという以前に、我々は自由にものを考え自由に行動できる存在であるという意味です。

「何を言ってるんだ。制度に縛られ、空気に縛られ、全然言いたいこともやりたいこともできない状況ではないか」

なんて思われた方もいるでしょうが、いつ何時でもこの瞬間からでも、それらを手放しどこにだって旅に出かけることができる。つまりそれを「する・しない」の選択をしているのは我々自身であって、やはりどう考えても我々は本来的に「自由」です。

したがって、極論するなら……という修飾語をつけるまでもなく、すべては自らが選択した結果であり、この世のすべてにおいて誰かや何かのせいにできることなど何一つとしてない、というのは、あまりにも当たり前の事実です。

これは小賢しい責任論などではなく、宇宙の認識についての話であることに注意してください。そう、ほんとうの「自由」とは「孤独」という意味に近いのです。

関連記事