コラム:政府・日銀の共同声明、修正の可否を考える=井上哲也氏

コラム:政府・日銀の共同声明、修正の可否を考える=井上哲也氏
 9月28日 日銀の金融政策決定会合(9月15─16日)は予想通りに金融緩和の現状維持を決定したが、黒田東彦総裁の記者会見では、多くの記者が政府と日銀による「共同声明」の見直しの可能性を質したことが印象的だったと、野村総研の井上哲也氏は指摘する。写真は6月の決定会合後に会見する黒田氏。6月20日、東京で撮影(2020年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)
井上哲也 野村総合研究所 金融イノベーション研究部主席研究員
[東京 28日] - 日銀の金融政策決定会合(9月15─16日)は予想通りに金融緩和の現状維持を決定したが、黒田東彦総裁の記者会見では、多くの記者が政府と日銀による「共同声明」の見直しの可能性を質したことが印象的だった。
記者による多くの質問は、次の2つの発想に基づいていたようだ。
第1に、菅義偉政権が新たな経済政策を実施するのであれば、政府と日銀との関係も見直すべきという発想だ。現在の「共同声明」は「アベノミクス」の「3本の矢」を具体的に表明したものであるだけに、新たな政策哲学に沿った合意の見直しが必要との考えは自然である。
第2に、これを機に物価目標を見直すべきとの発想だ。日銀は「共同声明」の翌月に就任した黒田総裁の下で実際に「大胆な金融緩和」を実施してきたが、現在に至るまで物価目標を達成できていないので、こうした発想が生じることも理解できる。
<「共同声明」の見直しに予想される内容>
ただし、現時点で「共同声明」を見直した場合、その焦点は物価目標ではなく、むしろ雇用になる可能性が少なくない。
新政権の喫緊の課題は新型コロナウイルスの感染抑制と経済活動の維持との両立であり、後者については深刻な影響を受けている産業を中心とした雇用の維持が求められる。これまでは企業に対する大規模な財政支出で雇用を下支えしてきたが、今後は「財政の崖」に近づくことが懸念される。
そこで「共同声明」の見直しを行えば、日銀にも雇用維持を担ってもらうべきとの主張が生じうることは想像に難くない。米連邦準備理事会(FRB)が、物価安定とともに最大雇用を政策目標にしていることも、こうした意見を後押しするであろう。
実際、日銀に雇用維持の目標を付与しても、大きな問題は生じないように見える。低インフレが定着した日本では、金融緩和を維持すれば、インフレ率を押し上げ雇用を拡大することで2つの目標をともに追求しうるので、目標達成にジレンマが生ずる可能性は低い。
しかも、金融緩和を継続しても高インフレが生ずるリスクはそもそも小さいし、資産価格バブルのリスクも適切に抑制されてきた。また、通貨に対する国際的な信認が不安定化するには時間的猶予がありそうだ。
<政策手段を巡る議論>
それでも、筆者は日銀に雇用維持の目標を付与することには慎重であるべきと考える。雇用の維持が重要課題であることにはもちろん同意するが、これには政府の方が効率的に対応しうる一方、日銀に役割を担わせれば新たな副作用が懸念されるからだ。
日銀による新型コロナ問題への対策においては、無利子・無担保融資を行った金融機関へのバックファイナンスや、社債・CPの買い入れ枠の大幅な拡大など、資金供給の相手や条件、規模の面で、資源配分に対するより直接的な介入を意味するものが含まれることが特徴である。
これらは中央銀行の機動性を生かした緊急対策として実施されたが、効果的であればあるほど、終了の決定を先送りさせる圧力がかかりやすい。加えてFRBによる金融政策の見直しが示唆するように、適切なインフレ率が存在する物価と異なり、雇用の場合は多ければ多いほど良い点を踏まえると、そうした圧力はなおさら強まりそうである。
こうした状況で日銀に雇用維持の目標を新たに付与すれば、緊急対策の一層の強化と長期化を招くことになろう。今年前半のような緊急時には有効であるこうした政策手段も、常態化すれば市場メカニズムによる経済資源の再配分機能を損ない、ひいては長期的な経済成長率を抑制するリスクが高い。
新型コロナ問題を持続可能な形で克服するには、新たな経済構造へとシフトすることが必要であるからこそ、菅政権も市場メカニズムの活性化を意味する規制緩和を経済政策の重点に置いたと理解できる。それなのに日銀が市場メカニズムを毀損するリスクのある政策を続けるようでは、政府と日銀との経済政策に関する協調にむしろ水を差すことにもなりかねない。
日銀にとっても、危機対策が常態化してしまうと、市場メカニズムに依存した通常の政策手段の効果がむしろ減衰する結果、危機対策に一層依存せざるを得なくなるという悪循環に陥る恐れが大きい。
<物価目標の政治的な意味>
一方で、物価目標を「共同声明」の中で維持することには、依然として意味がある。
黒田総裁が記者会見で確認したように、日銀が物価安定を通じて経済の発展に寄与する役割を担うことは日銀法に明記されており、国民の意思を反映して国会が決めたという重い意味を有する。この点自体は、政府と日銀の協議によって変更を加えることのできる次元の問題ではない。
これを日銀からみれば、日銀法に規定された物価安定を目指して政策を運営する限りは、政策判断の自主性は法的に守られることを意味する。
確かに、日銀が物価目標の意味で物価安定を達成できていない点では、役割を果たしていないという批判も可能ではあるが、これだけ「大胆な金融緩和」でも物価目標が達成しなかっただけに、低インフレの継続が構造的な要素に影響されているとの理解も広く共有されている。
その意味で、今や、物価目標の達成如何が金融政策の信認に深刻な影響を与える状況ではなくなった。
こうした点を踏まえると、記者が提起した問題意識も理解できるが、筆者は「共同声明」を現状のままに維持することの方が望ましいと考える。
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション研究部主席研究員。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。
(編集:田巻一彦)
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