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【日本の論点】ひろゆき vs 上念司
Suzuki Takami福岡大学 教授
ひろゆきは起業家として色々な分野に浅く広く理解があり、タチの悪い素人として専門家相手に論破芸を仕掛けられるのは、本当にすごい。ひろゆきの論破芸には、思考訓練の題材として学ぶものがありますね。上念さんも、専門家として分かり易い表現を提出する、その芸風は見事。
専門家になれば、自分のフィールドで白を黒と、黒を白と言いくるめるのは簡単で、それだけ現実は複雑で理解し難いことは、少し勉強すればすぐわかること。経済なんて、誰も理解できない化物だ、という前提があっての議論だし、どんな経済学の学説も、百年後にはその前提からひっくり返されてるのが歴史の常で、そういう視点からものを見ることが大事だと常日頃思う。とはいえ、僕も番組を見つつ、すぐに答えを知りたがる、普通の視聴者に成り果て、二方の論破芸、一般解説芸を見て、理論的なことを勉強した気になってしまうのは、大変良くないと反省。同時に、一般視聴者をいかに楽しませつつ、学んでもらうのか、という入り口としては、論破ネタで煽るのは、面白い。
「自分の頭で考えろ」とみんないうけれど
Suzuki Takami福岡大学 教授
フランスと日本の文化的差異とコミュニケーション可能性について考えているので、小坂井「先生」の問題意識には共感する。フランス的普遍主義と日本的非個人主義の間で、どうするのか分からない、どこに判断基準を持ってきて良いのか分からなくなるのは、よくあること。ただ、自分を「客観的」に捉えようとすることが、社会学の枠にハマりすぎ、という感想をどうしても持ってしまう。社会を捉えようとする際の、普遍主義的な信念の残滓、社会学の成立基盤をなす虚構というか。結局相対主義の枠から出ずに、かといって近代の普遍主義的なものの見方にも染まらずに、どうするか分からない、みたいな袋小路。そこは出たほうがいいと思う。結局、理解する、というよりは創造的に解釈するために、信念(物語、虚構)の創出のほうが大事で、「べき」論は確かに雨乞いだが、舞踏としての雨乞いを踊ることにより、その踊り手の感動的な所作から、何らかの祈りを伝播させることの方が創造的。
柔道 金メダリスト 古賀稔彦さん死去 53歳
Suzuki Takami福岡大学 教授
懐かしい感覚😭
古賀選手の姿はずっと胸の奥に焼き付いています。
この記事の古賀稔彦が男泣きした写真を
目にした時には
30数年の時を超えて
古賀稔彦と一緒にテレビの前で泣いた自分が
ありありと蘇りました。
誰かの記憶に残ること、
深層心理の奥深くまで繋がる記憶
匂い、光、音、味、イメージ、何かがきっかけになり、
その深い記憶が蘇ること。
その記憶と共に、当時の自分が蘇り、
自分の幼少期、青年期、当時の悩みや憧れ、親子関係、
あらゆる記憶が蘇ることを
無意志的記憶、あるいは無意識的記憶、
と名付けた作家がいます。
マルセル・プルースト
20世紀のフランス文学の最高峰とも言われる、
プルーストの大編小説『失われた時を求めて』。
この小説中、最も有名なシーン、
大人になった自分が、幼少期よく食べていた
ハーブティーに浸したマドレーヌ、
それを何十年ぶりに口にした際に
忘れられていた幼少期の記憶が
鮮やかに蘇り、
再び自分の幼少期を生きるような感覚になる、
そんなシーンがあります。
そんなマドレーヌ体験。
この記事は自分にとってマドレーヌ体験に似たものを呼び起こしてくれました。
古賀選手、古賀コーチのご冥福をお祈りします。
【落合陽一×山口周】資本主義をいかにハックすべきか?
Suzuki Takami福岡大学 教授
Well being の実質、価値観の多様性、幸せの定義、まあ色々ありますが、ガブリエル・タルドの議論を思い起こさせる。19世紀に活躍し、一旦忘れ去られ、ドゥルーズなどによって再評価され、またなんとなく忘れられている、ガブリエル・タルドは、次のように言う。社会はどう動いているのか、インフルエンサーの欲望と信念が波及することによってである。つまり、オリジナルな奴が変なこと言い出して、それが一般市民の欲望と信念の形態を変えていくのが、社会の変化だということである。snsの普及により、この速度が飛躍的に高まり、グローバル化によって、そのシステムの相互作用が捉え所のないくらいに複雑化した。特に、翻訳による曲解と創造、画像、映像主体のコミュニケーションの発達、音声言語の復権などにより、世界の価値観はカオスの中に、情報量の拡大が止まらない世界になったのかな、と思われる。論理的に導ける指針はなく、指針は新たな欲望と信念によって、作るものでしかない。あとはどれだけ影響力を持てるか、どれだけ愚民を泣かせることができるのか。その意味ではロマンティック・ラブは凄まじい文化的発明であったと思わららる。
現代の教養。ネアンデルタール人は私たちの中に生きている
Suzuki Takami福岡大学 教授
もはやDNA解析の前では、「人種」という考え方は非常に粗雑でしかない。だからこそ「人種差別批判」の考え方も粗雑である。もっと微細な差異、民族集団レベルでの遺伝子の変容の歴史が問題になる。「アフリカ人こそが純粋なホモ・サピエンスであり、それ以外は全員、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人とのハイブリッドなのだ」。歯切れのよい宣言。アルゼンチンに住んでいた頃、コロナのため、「中国人差別」を受けた。薬局に入る度に、タクシーに乗る度に病原菌扱いである。そうした差別は乗り越えられて然るべきである。しかしながら、ウイルスはもっと精妙で残酷なDNA差別主義者である。恐るべきファクターX。
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