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「アンドロイド」がオペラ公演!「音楽」「ロボット」「人工生命」第一人者の「楽屋鼎談」
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
観て来ました。最初のオルタはICCでも文化庁メディア芸術祭で展示されていましたが、あの人型を模した、しかし、そのふるまいは一般的な感覚からすると奇異に映りもするものでした。人間のようで人間でないものが日常的に同居するようになったとき私たちがそれをどのように見做すか、という実験でもあった石黒浩のアンドロイドは、さらに池上高志との共同によって人間のようで人間でない、人間のふるまいとは異なる他者としての生命体であることを喚起させるものになりました。そして、あらたなオルタは、他者としての生命であるアンドロイドが人間のオーケストラを指揮し、それとともに歌を歌ったら何がおこるかという実験を行なったのです。
いわゆる指揮者ではない何者かによって演奏を行なったオーケストラは、その初めての試みにとても素晴らしく対応していました。石黒の言うようにそれによって、アンドロイド指揮者が人間らしさを獲得していく、そのような場面に出会った不思議な高揚感のようなものがありました。
渋谷慶一郎の音楽はテキストの文字列を音階に変換することでメロディー化していたということで、これはスティーヴ・ライヒのスピーチ・メロディ(しゃべり言葉のイントネーションをメロディに置き換える)の翻案のようで大変興味深うものでした(どう変換されたのかはわからなにのですが)。また、渋谷の選んだスクリプトは実際には字幕を追うことでしか理解はできませんでしたが、アンドロイドを歌い手とすることでよりその意味が顕在化するように感じられました。
三島由紀夫の『天人五衰』がテキストとして使用されていましたが、『豊饒の海』は主人公の輪廻転生の物語です。それはその原稿が冥界から届けられたかのように編集者に届くように仕掛けられたものでもあるのですが、自分には無意識がないと言った三島由紀夫と指揮者のアンドロイドがオーヴァーラップするようにも思えました。
オルタと演奏がある種の人間らしさを醸し出した一方で、演奏者と観客が人間であることがネックであるという主旨の話をした池上の言うように、そこに人間による人間のための、という制約がどうしても働いてしまっている、ということも考えさせられるものではありました。
【寄稿】美術手帖編集長が解説「アートメディアの役割」
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
美術雑誌と言われるものにはいくつかあって、情報誌、批評誌、業界誌、あるいは学会誌などがあるかと思います。ジャーナリズム、クリッティク、マーケット、研究という感じでしょうか。
美術手帖は私が高校生のときから読み始めていますから、35年くらい、美術手帖の歴史の半分くらいの時間を読者でいることになります。
そこに文章を寄稿することができるようになって18年くらいでしょうか。いまもたまに書かせてもらっています。
美術手帖は、これまでも時代とともに誌面を変化させていった雑誌で、おなじ雑誌かと思うくらいの変化があった時期もありました。それくらい時代や読者の変化に対応してきた雑誌だったと言えます。
私は大学生のころから過去の美術手帖を遡って集めることもはじめ、60年代中ばくらいまで遡っていきました。美術大学の近くの古本屋には学生やアーティストが売ったのか、美術手帖のバックナンバーが山のように積まれていたのでそれを関心の赴くままに買い集めていきました。
前衛の時代、国内外の新しい美術動向を紹介し、60年代の後半から70年代は、美術手帖がそうした動向を牽引する役割も果たしていたように思います。雑誌メディアとアーティストが協働し、ある種のアジテーションのようなものがそこには感じられました。
美大生だった80年代末90年代前半の、名称を変えてBTとなった時代にも、どこか現代美術の世代交代を感じさせる内容は、学生には非常に刺激的なものでした。
そして、現在、本とウェブ、ふたつのメディアを使った展開へ、「ニュース記事のみならず、日本全国の展覧会情報、アーティスト、美術館・ギャラリーのデータベース、アートの用語辞典を備えた、総合的なアートポータルサイトとして拡張リニューアル」されました。
これまでの専門誌といった部分を深めつつ、より開かれたものであるための展開ということだと思います。それは、これまで個別の雑誌がそれぞれの専門性に特化した読者層に向けて発信していた美術雑誌を、総合美術メディアへとアップデートするものでしょう。
メディア・アートも美術と呼べなかったような、さまざまな例外的な要素を取り込んでいきましたが、美術メディアもまた、近年では美術という専門性の外側から美術をながめ、批評を展開するものでもあります。そこからまた新たな価値の創造が行なわれることになるでしょう。
現代人の新たな教養。アートの歴史と業界地図
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
世界のエリートやビジネスエリートにならって美意識や西洋美術史を身につけることを推奨されている昨今。そういうエリートたちにとって美意識や西洋美術史がどのようなものとして内面化されているのかが非常に重要なのだと思います。
なぜ重要かといえば、やはり、そこには自分の価値観を持ち、客観的にそれを分析し相対化できること、未知のものへの好奇心、他者を理解しようとすること、新しい価値を見出すこと、などなどの基本となる姿勢、態度が求められるからでしょう。
アートを見るということは、なにか崇高な、圧倒的、絶対的な体験であるということもありますが、こと現代アートにおいては、そこから自分の考えが照射されることが重要なのだと思います。
言われたことが絶対、自分の考えを持たない、というようなことが集団の一員であることの条件ではない、ということがビジネスにおいても尊重されるようになるために、それはたしかに重要な教養なのだと思います。
学芸員が解説するメディア・アートの世界
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
今日はJ-WAVEの、PICK ONEでお話しさせていただきました。ソニーの調理ロボット開発に石黒浩さんが招かれたというニュースをきっかけに、メディア・アートとはどのような芸術か、という話にまでいたりました。
現在のアーティストが少なからずテクノロジーそのものやテクノロジー環境に触発されて制作を行なっています。一方、サイエンスやテクノロジーにインスピレーションを与えるのもまたアートなのだというお話をさせていただきました。
ロボットが社会に参入し、共存がはじまったとき、私たちはどのようにふるまうのかを考えることは、テクノロジーのあり方がどのように社会を変えるのかということを考えさせてくれるものでもあり、メディア・アートの問題意識とも重なるものです。
サッシャさん、寺岡さんのナビゲートで、いろいろな例を挙げながら、アート&テクノロジーの関係性のいろいろなあり方をお話できたかと思います。
また、ぜひICCへもお運びいただけましたら幸いです。
http://www.ntticc.or.jp/ja/
【驚愕】InstagramはおばさまのSNSになっていた。
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
英国のロックバンドThe Kinksの曲に、People Take Pictures of Each Otherという曲があります。1968年の曲ですが、歌詞はこんな感じ。
「みんなが写真を撮り合う
ただ彼らがほんとうに存在していたということを証明するためだけに」
写真とは、自分が存在していたことや、自分がなにかを見た、そこにいた、ということの証明としてのメディアである。現在、カメラを毎日肌身離さず持ち歩き、さらにはそこから世界に発信することができるという機能を持ったスマホを私たちが手にすることになり、それはより多くの人々の欲求を加速しているのかもしれません。
「ムサビ」、都心で勝負 旗振り役は元出光の剛腕社長
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
美大に限らずですが、大学のの都心からの離脱が進んでいる中で、都心への一部学部の移転は、今後こうした動きのきっかけになるかもしれませんね。
一方、美術には実社会への応用というよりは、社会を動かす人々をインスパイアするものであるという考え方もあります。社会動向、科学技術、さまざまな要素が相互に影響し合い、触発し合う環境に身をおくことはそれぞれによいことだと思います。
もうひとつ、大学が都心からはなれ、学内の設備も学生同士の交流も充実しているのですが、そうするとなかなか学生が都心にでて美術館などを観る機会がなくなってしまう(電車賃もかかるし)という傾向もあり、ふたつの行き来ができるようになるのかもしれません。電車賃はどうなるのかわかりませんが。。。
【プロピッカー】7月は「シェアリングエコノミー」「アートを読む」
畠中 実NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員
7月のマンスリープロピッカーのご依頼を受けて参加させていただくことになりました。普段はメディア・アートを中心とした、現代のメディア・テクノロジー環境における芸術表現、およびデザインなどの社会実装を扱う文化施設で展覧会などの企画を行なっています。たまに美術や音楽の批評を書いたりもしています。
メディア・アートとは、テクノロジーを駆使したいままで見たこともないような体験をさせてくれるもの、という面がクローズアップされていますが、テクノロジーによって表現がどのように変わるのかということだけではなく、テクノロジーのあり方がどのように社会を変えるのかということを考えさせてくれるものでもあります。また、テクノロジーによって表現がどのように変わるのかということも当然関わっています。
テクノロジーに触発された表現が、テクノロジーを批評し、テクノロジーの見方を変え、私たちの意識や社会を変える。そうしたサイクルを起こしていくことがメディア・アートの営みなのではないかと考えています。
そのような観点から、ニュースをとらえたとき何が見えてくるか、自分でも楽しみにしています。
NORMAL
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