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“若者のお酒離れ”に若者たちが本音回答「おじさんもフラペチーノ飲まないでしょ?」
マネーポストWEB
田村 修5 inc. 執行役員
広告業界の視点で見ると、日本ってアルコールの販促キャンペーン大々的に行いながら、同時にアルコールの摂取を抑えるキャンペーンをずっと続けている。 (ちゃんと調べて見ると面白いテーマだと思うだけど、以下はちょっとうろ覚え) たとえば、高度成長期にアルコールのテレビCMがバンバン世の中に流れたこと(が直接的か間接的かわからないけど)によるアルコール依存症の増加。そして、それによるテレビCM放送に関する自主規制(平日昼間は流さないとか、休日でも昼間はビールなどの低アルコールに限るとか)が生まれた。 また、バブル期には大学生の一気飲みによる急性アルコール中毒の増加による、お酒は適量に、とか未成年の飲酒はNO等のキャンペーン。 飲酒運転防止のキャンペーンもずっと継続して行われてる。 広告ではないけど、各アルコール飲料メーカーのサイトでも適正な飲酒量の説明は山盛りだし、もちろん厚生労働省でも節度ある適度な飲酒といった、飲酒のガイドラインを出している。 どれもこれも、毎日飲酒をしている私から見ると圧倒的に少ない量である(笑) つまり、成人あたりの酒類消費数量が減ったと云うことは、政府や業界、企業を上げてのキャンペーンの結果ではないだろうか。これだけ効を制したキャンペーンってあったのかと云うくらいに成果を出しているわけで、なんら「若者のお酒離れ」と嘆くようなものではないと思われるんだがなぁ。
“とりあえず出社”求める愚 「テレワーク環境」を整えない会社に未来はないと思うワケ
ITmedia ビジネスオンライン
【3分図解】最新マーケティングの「マス」はSNSにあり
田村 修5 inc. 執行役員
自分たちの宣伝であるとはいえ、随分と勝手にロジックを組み立てたなぁと言う印象。 マスマーケティングとは大量生産大量販売の時代に対応したマーケティングの考え方で、とにかく大量に生産するんだから、大量に販売しなきゃいけなくて、そのためにはできる限り多くの人に知ってもらって店舗に誘導しなきゃいけない。 だから、まずは大量のリーチが必要って言う話でテレビや新聞が多くメディアとして利用されたわけ。 現在は、大量生産大量販売を成立させるマーケティング手法というよりも、顧客主導の考え方や顧客体験、顧客との価値共創に着目をしたマーケティングの考え方に変わってきている。 その変遷になぞらえると、そもそも「マスである、マスではない」「古いマス、新しいマス」ということを議論すること自体の意味がほとんどなくなっていると思うんだよね。 その中で「大量にリーチできる」ことを最大の特徴にしている様だけど、その特徴が顧客体験や顧客との価値共創に不可欠かを考えてみると、別に大量リーチは別に価値共創には必要じゃないよねぇと言えるんじゃないかな。 LINEの使い道なんてまだまだ色々あるだろうに、何も「マス」って言葉に拘らなくいいのになぁと思った次第。
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デジタル広告の透明性確保を 新聞協会が意見書
日本経済新聞
田村 修5 inc. 執行役員
なんかものすごく違和感のある内容。 新聞メディアもデジタル領域でビジネスをしているわけで,広告業界の一員としてネット広告の信頼性を担保しネット広告の価値創造を担う役割を持っていると思うのだが,一方的に被害者の立場を表明してしまった印象がある。 悪い言い方をすると,自分たちで販売すべき自社のデジタル広告枠を,自分たちで販売せずプラットーフォーマーに丸投げをしていながら「不透明だ。もっと利益をよこせ」と言ってるようなものに感じてしまう。 広告メディアとして,正当な利益を要求し透明性のあるビジネスをするのであれば,自社デジタル広告枠の企画開発,販売管理に対して相応の組織対応,システム投資をするべきであったのではないか。 ネット広告業界は,その歴史から見ても,メディア側がほとんど投資をしてこなかった広告配信,入札システム,読者データ管理,トラッキング調査などのサービスを提供していくために複雑化し,カオス化していったとも言える。あまりにスピードが早すぎたために投資も追いつかなかったし,海外との競争に勝てなかったと言うことは理解できる。 でも,それをなおざりにしてメディアが「透明性を求める」と言ってしまうのは,広告業界にいるものとしてとてもモヤモヤが残る。
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博報堂と著作権侵害
雑誌『広告』
田村 修5 inc. 執行役員
私も広告業界で働いてきたので,その難しさというものはよくわかる。 確かに広告クリエイティブというものは権利の扱い方が難しく,その理由の一つに「委託制作である」とう事情がどうしても絡んでくる。 つまり,アーティストが自己の表現として作品を発表しているのであれば,あるいは商品パッケージデザインのように企業自らの製品を世に出し販売しているのであれば,制作に関わる過程や経緯,自らの信念に基づきその権利に対して最後まで主張することが自らの責で行うことができる。 ところが,広告クリエイティブや販売促進に関わる制作物の場合,それは委託されての制作である。委託者もその広告クリエイティブや制作物を世に出すために委託しているのではなく,他の目的のために手段として委託しているに過ぎない。もちろん,委託された広告の制作者は自らの信念に基づき制作をしているのだけど,その信念と委託者の目的とする信念は別なところにあると言っていい。 ものすごく,ざっくりと三つくらいに分類すると以下の様になる気がするのだが,そのクリエイティブ制作のためのエネルギーや信念についてのの優劣にはどれも差はないだろう。 ・アーティストの様な自己表現としてのクリエイティブ ・メーカーの製品としてのクリエイティブ ・委託物としてのクエイティブ さらに,ビジネスとして世に出す際のチェックポイント(この文中における,類似物を事前に探し確認をすると言った行為)についても,どれもがきちんと機能していると言っていいだろう。 ところが,そこになんらかの疑義が生じた場合,委託物としてのクリエイティブのみが自らの判断と責だけで進められなくなってしまうという状況に陥ってしまう。なぜなら「委託物」だから。 その構造そのものが,ビジネスとしての広告クリエイティブの著作権というものを難しくしているんだろうなぁと改めて思う。 避けては通れないし,解決する事は多分ないけど,知っておかなければいけない広告ビジネスの現実なのだと。
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米FB、憎悪に満ちた広告禁止へ ユニリーバもボイコットに参加
Reuters
田村 修5 inc. 執行役員
これ,ポイントが二つあるのに,タイトルと記事内容がそれを混同しちゃった記事ですね。 論点ときちんと整理すると, 1)ブランド広告主によるFacebookへの出稿中止 2)Facebook社による,攻撃的な広告の掲載排除 の二つがあるのに,それがぐちゃぐちゃになっている。 1)の視点だと,ブランド広告主がFBへの出稿を取りやめる理由は,「FBに掲載されている広告があまりにも酷すぎる」という点と「FBにアップされている一部の意見があまりにも酷い」という2点がある。後者については,ネット広告のブランド毀損問題としてよく議論されており,ソーシャルメディア 自体の信頼性の問題でもある。 一方,前者はブランド既存というよりも,広告メディアとしてのFBの広告審査が怠慢であるという問題。まぁ,この辺りは日本のFBでも優良誤認や有利誤認な広告が一向に減らないし,正直言って単なるメディアの怠慢でしかない。 米国の広告マーケットだと割と個人や団体でも広告を使うので,きちんと審査をしないとあっという間に危ない広告で溢れてしまうのは想像がつく。 2)の視点では,それをやっとFBが重い腰をあげたというだけの話。 なので,タイトルから見ると「クライアントとメディアが協力して」みたいな印象があるけど実は全然そんなことはない。 単に「ブランド広告主は,FBはコンテンツも広告も酷すぎるので広告を出すのやめまーす」だし,「FBは,ブランド広告主の出稿がなくなると困るから審査ちゃんとやります!」って言っているだけ。 個人の発言ということで,個人のアップするエントリーについては表現の自由などの視点で制限をかけていくのは難しいと思うが,ビジネスとしての広告であればメディアは自社のポリシーに則って審査はしなきゃダメでしょ。じゃないと,メディアとして広告費のためにヘイトなど意見拡散に加担をしたという事実になってしまう。それがメディアのポリシーなら今更広告審査の厳格化はする必要ないし。
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