数字はすべてを漂白する
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現代社会における一個人にとって、経済とは、資本主義とは何か。マクロな制度論は僕は苦手なので、あくまでひとりの人間にそれがどんな影響かを考えるのが好きです。今回は『文化資本の経営』復刊に寄せて、自分の問題意識に寄せて書いてみました。なんか思ったこと、「そういえば」とつながったことがあった方、ぜひコメントください。もちろん『文化資本の経営』の感想でも。待ってます!
「数字はすべてを漂白する」という言葉が強烈。強烈だが、共感する点が多い。
漂白剤は強力。漂白剤が世の中に存在するには理由があり、漂白する必要があるから。一方、強力ゆえに、適切に使わなければ、色・模様が違うものも同じにしてしまう。
その強さと怖さは表裏一体。漂白し、捨象し、単純化する。だからシンプルな正規化された表現になり、正規化されているから比べられる。
世の中、理解するためにモノサシを使い相対化して、特徴を把握したり、その特徴同士を比べて意思決定をすることが多々ある。一つ一つのモノゴトは、本質的に違い複雑。だから、漂白・捨象することで、人間の認知限界に収め、重要な部分にフォーカスして理解や意思決定を可能たらしめる。
一方で、漂白・捨象していることに自覚的でなければ、過度な単純化や、それによる現実の軽視や誤認も起こる。また漂白・捨象された後の数字だけ見ていると、実態を把握できないことも多い。認知限界のなかにあっても、その理解や意思決定に対して重要なものを見ていなければ、結論も当然素っ頓狂なものになる。
漂白・捨象した数値の前の現実での厚み・薄さが、結局長期的な結果に、漂白・捨象された数値として出てくる。
「非財務指標」と呼ばれるが、お金以外の数値で表したり、またその裏側にある事業や企業のリアルがある。そして漂白されているからこそ、そこの指標が悪ければ、現実を直視するキッカケにはなる。
漂白・捨象は不可逆的なモノ。不可逆的であることに自覚的である必要はあるが、一方で一定の想像をできるものもあるし、想像をしきれないということを自覚しながら数値に触れるなどして、向き合いたい。デカルトによって幾何学が代数に置き換わったと認識すると、あとは計算能力の勝負と考えてしまいがち。世の中一見するとコンピューティング全盛で、スティグレールの言ったまさに「象徴の貧困」ですね。
あまり計算可能性について議論する向きも無く、プラトンがアカデメイアに掲げた「幾何学を知らぬ者~」で云わんとした直観的な思考もファスト思考程度に貶められてる昨今、新たな気付きを得る技術が必要なのかもしれません。