モヤる「多様性」を人類学と考える①〈不思議なことば編〉
コメント
注目のコメント
「神ってマジうけるよね!」という言葉がとても印象的。
認める・配慮するという言葉へのもやもや感、とても共感する。一方で共感というのは、共感しないことへの排他ともいえるので、ここらへんも書きながらモヤったりはするのだが、一定のラフな適当さをお許しいただきたい。
認める」という言葉の「認」は、「認識」にも入っている。
そもそも多様であるということを認識する、他に対してではなく、自分に対して「認める」というものではある。ただ自分がなんらかその考えを至る背景があり、そこに対して強い思いを持っているときは特に、橋本さんが書かれている通り「自分自身を否定しまくり、傷つきまくる覚悟が必要」なのだろうな。事実として「受け止める」であって、「受け入れる」では無いというのはその通りだと思います。
理解できないものは理解出来なくていい、無理なものは無理でいい。Agree to disagreeで十分。
価値観は全然違うね、その上でどんなロジックや状況か聞いて共感点や理解出来る部分を探りたいんだ、と対話をする態度を共有することが多様性の本質だと思います。
また私は多様性をハンナ・アーレントのいう複数性と捉えています。
人権重視で欧米的な個性のある反応(主張)と多様性は相性良いけど、多数意見の空気を最適解として反応をする日本人とはそもそも相性の悪い概念な気がしてならないです。多様性という言葉は、同質では無いものも認め尊重しようという所から言われるようになった。それが浸透すると、今度は同質でのまとまりが出来る。同質集団の中ではその一部は理論的に先鋭化しそれなりに力を持つようになってゆく場合も、平穏化してゆく可能性も考えられる。それでもそれは一定の枠内であり、それでハッピーでめでたしめでたしとなるかというと、そう簡単では無い。他者との異質さは同質集団の中であってさえ、どこまでも付いて回る。
結局のところ多様性として、認められ受け入れられたかのようであっても、人は孤独である事に変わりは 無い。
それで、否が応でも結局は、多様でそれぞれが孤独という事になる。まあ突き詰めて考え始めたらキリがないし、受け入れつつ個としての楽しみを持つ事が良いと思う。
その上で、個と個で助け合ったりしながらのスタンスで過ごせれば・・・上手く行けば長生き出来るかも(笑)