【沼田晶弘】方法にとらわれるな。自由研究で養う「考察力」
コメント
注目のコメント
「方法にとらわれるな」というより、小学生では方法はまだ身についていないので、方法に基づいた研究をやらせようとするべきではない、ということになりますね。
「研究」というのはまだ世界で誰もやったことのない、オリジナリティのある発見をすることなので、そこに至るまでは大変です。
何しろ、「まだ世界で誰も見つけていない」ことを確認する作業だけでも膨大で、何千もの文献(先行研究)をまず読まなければなりません。
もちろん、小学生の「自由研究」というのは、そういうものではありません。
ピアノでもバレエでも彫刻でも、先生から「方法」、「型」というものを習うのは必要なことです。
好きなようにピアノをバンバン叩いてみましょう、だけでは、市場価値のあるピアノ演奏はできません。
研究でも簿記でも、「方法」、「型」を習うのは、他者から評価されるようになるためには必要です。
しかし、小学生にそれを求めるのは無理なので、まずは親しみを持つために、「ピアノを好きなようにバンバン叩いてみましょう」とか「絵具をカンバスに好きなように塗りたくってみましょう」というのが、「自由研究」といえます。
なお、日本はゼネラリスト最優遇社会なので、何の「方法」も身につけないまま成人して人生を送る、という人が非常に多いです。
下手なところだと、大学院で何年も学んだのに、何の方法も身についていない、という人もいます。
それから、方法がなければ、独自性のある、世界で誰もやったことの無い研究はできないのかというと、確率的にいえば、数百万人に1人くらい、そういう人も現れます。
遺伝学の祖であるオーストリアのリンネという人は、中学校教師などをやりながら、40歳を過ぎて、初めて学会で発表し、特に聴衆からの反応もなく、それから論文を書いて各地の研究者に送りつけましたが、やはり反応がありませんでした。
リンネは死後、30年経ってから、再発見されて評価され、リンネの3法則で後世に名を残しました。
「自由研究」から、そういう独自性のある研究が生まれることは、ありえなくはないですが、確率的には非常に低く、効率のよい方法ではありません。研究をしていない人や,研究室に入りたての学生とかを見ていて思うのが,「研究」と「調査」を混同しているなぁということです.
研究はこの記事にもあるように,仮説を立ててそれを立証するための検証を行って結論をつける,というのが一連の流れです.一方調査は,何の目的もなくてもできてしまいます.例えば,「自宅の前の道を通る車の台数を計測する」みたいな調査自体は,何の仮説もなくてもできてしまいますが,結局その調査から何を言えたの?というところまでいくのが研究です.お盆のときだけ交通量が大きく減るとか,近所のスーパーが閉まる21時を境に交通量が激減するとか,そういった調べたい目的が必要です.
自由研究は,研究という名前がついているので,やはりこの仮説を立てて検証をするというプロセスを踏む練習ができれば理想的だとは思うのですが,研究のような雰囲気であっても,調査までで終わってしまうことが多いのではないかなと思います.この仮説が,小学生ならではの視点と大胆な発想で出てきたものだったりすると面白い自由研究になるのですが.
ちなみに僕は子どもに「ダイエット中に体重計に乗るとき,その前におならをしたほうが体重は減るか?増えるか?」を調べてもらいたいなぁとずっと思っているのですが,毎年断られています.今の自分の土台となっているのは、小学生、中学生の自由研究でした。叔父に研究論文の書き方を教わり、そのテンプレートに沿って作成しました。最初は「のり」の研究だったかな。米や小麦、こんにゃく芋などのでん粉を水に溶かし、その粘性を調べました。
中学時代は「カナヘビ」の研究。トカゲの一種ですが、その生態を調べ、科学賞を受賞しました。今は、コンサルティングでその時の経験が生きています。夏休みの自由研究は、その人の人生を変えることがあります。