映画『オッペンハイマー』 「原爆の父の物語なのに日本人が出てこない」のはなぜ?
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注目のコメント
見てきました。
日本人が出てこないのは、基本的にはオッペンハイマーの一人称視点で綴られる物語だからです。つまり彼の人生において日本人と直接相対する関わりが無ければ、映像にも出てこない。第二次世界大戦中の原爆が主な主題でありながら戦死者ゼロ、人死も一人を除いて殆ど無い。原爆への恐怖の感情も含めて、本当にオッペンハイマーの周囲で完結する映画です。
この記事で引用された批評が戦っている相手は米国におけるいわゆる原爆神話、原爆はその投下による死者よりも遙かに多くの命を救ったという米国における通説です。米国における核兵器に対する考え方の根っこにはこれがあるため、映画では核兵器の恐ろしさを訴えているように見えながらこの神話に挑戦しないのは肩手落ちだという批評が米国で出てくるのは理解出来ます。
ただそれを米国におけるローカルな議論として相対化すれば、少し異なる見方も出来るのではと思います。個人的には日本人が全く出てこない事自体が時代史として痛切な悲劇の形容になっていると感じました。
記事でも「ノーランに限らず、多くのアメリカ人が「戦時中の日本人について漠然とした考えしか持っていないからでは」」と問いを投げかけていますが、肝心のオッペンハイマーが日本人について漠然以上の考えを持っていたかも、映画では語られません。
その投下の決定も投下後の狂騒や恐怖や後悔も日本人の顔が不在のまま進行する。それがノーランが画こうとした原爆開発の現場の姿であれば、画かれているのは実にやるせない悲劇です。そこじゃないから
天才をまとめあげる、
天才を動かすことの出来る天才
こんなポンコツの指示に何で従わないといけない
と思われたら、結果は出せなかったでしょう。
天才に「この人に認められたい」と
思わせからこそでしょう。
年功序列の世界ではないから。