記者クラブの外から見る

花巻東リポート第1回

なぜ雪国から菊池雄星や大谷翔平が生まれたのか?

2015/3/13
雪国から好選手が生まれないという野球界の常識は、もはや過去のものになろうとしている。花巻東高校から菊池雄星(西武)や大谷翔平(日本ハム)が現われ、後輩たちがそれに続こうとしている。その立役者が同校野球部の佐々木洋監督だ。佐々木が起こしたみちのくの野球革命とは──。
花巻東高校の佐々木洋監督。2009年春の甲子園で同校を準優勝に導き、同年夏の甲子園では岩手県代表として90年ぶりのベスト4に。2013年夏の甲子園でもベスト4に進出した(写真:中島大輔)

花巻東高校の佐々木洋監督。2009年春の甲子園で同校を準優勝に導き、同年夏の甲子園では岩手県代表として90年ぶりのベスト4に。2013年夏の甲子園でもベスト4に進出した(写真:中島大輔)

成功の秘訣は「仕組みつくり」

エース投手として2009年春の甲子園で花巻東高校を準優勝に導いた菊池雄星(西武)が入学してきた際、監督の佐々木洋は同業者に「ずるいな」「運がいいな」と何度も言われたことをよく覚えている。菊池のような怪物投手がいれば、どんなチームでも勝てるという意味合いだ。

妬みの声を聞くたび、佐々木は胸のうちで答えた。

「雄星のような選手が入ってくる仕組みをつくっているんだ!」

6年前、岩手はまだ野球後進県とされていた。甲子園を前に佐々木が「日本一を目指す」と宣言すると、周囲や地元メディアから「何を言っているの?」と半笑いされたくらいだ。

しかし、いまや花巻東は全国に名だたる強豪となり、菊池や大谷翔平、岸里亮佑(ともに日本ハム)をプロに送り込んでいる。今年3年生になる高橋樹也もドラフト候補として注目を集める好投手だ。

彼ら花巻東勢に加え、銀次(楽天)や畠山和洋(ヤクルト)も岩手県出身で、14年ドラフト1位でソフトバンクに入団した松本裕樹も高校時代を盛岡ですごしている。みちのくの雪国から突如、なぜ好選手が生まれるようになったのだろうか。この謎に迫るため、昨年末、佐々木を訪ねた。

運命を変えたナポレオン・ヒルの本

「ある球団の偉い方に同じことを聞かれた際、こう答えました。『簡単です。一番変わったのは選手ではなく、指導者です』」

現在39歳の佐々木は、国士舘大学2年時に大きな挫折を味わっている。漠然と「プロ野球選手になりたい」と思ってきたが、具体的にどうしていいのかわからず、目標を断念したのだ。野球部から退寮を迫られ、「なんで俺の人生は何もできず、中途半端に終わっているんだろう」と絶望の淵に落ちた。

そんな折、藁にすがる思いで手にしたのが『思考は現実化する』というナポレオン・ヒルの著書だ。本屋で偶然出会った一冊から、自分に欠けていることに気づかされる。

「タイトルを見て、『俺の思考は現実化しないのに』と疑いから読み始めました。書かれていたのは、思考を目標に変える力。具体的に計画を立てる力。そして行動する力。それらの思考が整っていけば、夢が実現する。そのときに初めて『夢を実現するスキルがある』ことに気づいたんです」

学生コーチとして修行

自身の夢を「指導者として28歳で甲子園に出る」と設定した佐々木は、国士館大野球部の監督に「岩手で高校野球の指導者になりたい」と相談する。すると、「岩手にすぐ帰って指導者になってもダメだ。神奈川で勉強したほうがいい」とアドバイスされた。大学の先輩で強豪・横浜隼人高校野球部を率いる水谷哲也に連絡をとり、学生コーチとして勉強させてもらえることになった。

大学の友人がコンパを楽しみ、バイトで小遣いを稼いでいる間、佐々木はいつか大輪の花を咲かせようと練習の手伝い、野球関係者への接待に明け暮れながら、激戦区・神奈川の野球を学んだ。接待で焼酎の水割りをつくっているときは「早く終わらないかな」と思っていたものの、年上との付き合いが財産になることに後から気づいた。

「一生懸命やっている大人を見て、子どもは変わることがあります。大人のなかに入ると、大人みたいになりますしね。だからこそ、指導者は選手に成長する環境を与えてあげることが大事だと思います」

人を呼ぶために勉強に力を入れた

大学卒業後の1年間は横浜隼人のコーチを続け、翌年から社会科教諭として花巻東に赴任する。バトミントン部の顧問を1年間務め、00年野球部のコーチに。翌年から監督を務めている。

当時の部員は1学年にわずか10人。中学生に声をかけても、「商業高校か工業高校に行きます」と断られた。佐々木が監督就任する直前の01年、花巻東は夏の県大会で1回戦敗退に終わっていて、球児にとってまるで魅力のない学校だった。

何とかしようと佐々木は野球の本を読み、打撃の勉強会に出かけてと指導者としてのスキルアップに努めたが、新入生は思うように集まらない。悔しくて、苦境を打開しようとさまざまな人に話を聞くと、「経営から勉強しろ」と言われた。経営的発想で「なぜ選手が来てくれないのか」と考えると、「出口がないから、入り口から人が来ない」ことに気づいた。

高校生にとっての出口とは、プロや社会人で野球を続けられる環境、あるいは大学進学だ。3つの進路とも、まだ花巻東には実績がない。だからまず、コース整備に着手した。

当時、花巻東は特進クラスの設置を控えていた。そこで佐々木は、「特進より先に野球部から国立大や東京六大学への入学者を出す」ことを目標に掲げる。具体的に行ったのは、生徒に大学合格までの道を逆算させることだ。

「スポーツ推薦やAO入試を狙うには、評点をとらないといけない。それには期末テストで点をとる必要がある。つまり、普段の授業で頑張らないといけない。『大学に行くことを考えたら、今日の授業は勝負だよな?』と話しました。期末テストの前に目標を設定させ、計画を立てさせ、アクションを起こさせる。テストでは順番をつけて、周りと比べさせて、課題を修正する方法を考えさせました」

授業中、時計とにらめっこしていた部員たちはいつしか勉強のおもしろさに気づき、成績を高めていく。そうして大学への道を自ら勝ちとるようになった。

学生目線のカッコいいロゴをつくった

同時に佐々木が行ったのは、花巻東のブランド化だ。具体的には、帽子のマークを校章からロゴに変えた。もらった名刺に書かれていた企業のロゴマークがヒントになった。

「子どもは学校の顧客だから、その目線に立ってカッコいいものを考えました。同時に顧客としての親は、子どもをしっかり育ててもらいたい。そういう経営者的視点で発想し、両者の満足度を上げようと思いました」

来るべくして菊池雄星が来た

佐々木が監督に就任した頃、30人だった部員数は現在、130人を超える大所帯となっている。

部員数が右肩上がりで伸びた理由は、出口をつくったことばかりではない。野球部を強化すべく、たとえば投手にとって大切な肩の可動域を広げるトレーニングを自ら研究し、選手に実践させた。学校のプールや筋トレ用のマシーンを使い、効率的なトレーニングを実施。努力はすぐに実を結び、03年夏の岩手県大会ではベスト4に進出した。

「花巻東に行けば、いい投手が育つ」――。

ある投手が社会人野球に進み、地元ではそう囁かれるようになった。その評判を聞きつけたのが、菊池雄星だ。佐々木にすれば、菊池は来るべくして花巻東に来たのだ。

「うちはいろんなことで勝つ仕組みつくりをしています。選手の意識づけができているので、次から次へと高いレベルの子が出てくる。選手も『プロに行きたい』と思い、そういう意識で練習するようになりました。指導者もそうした気持ちになり、子どもたちを育てる能力が高くなった。つまり、昔から岩手にいい選手はいたんです。それが潰れていたという話で、ここに来ていい素材が出てきたというわけではありません」

現在、甲子園を目指す高校生にとって野球留学は当たり前となっているが、岩手県の球児たちにその必要はない。花巻東に行くことが甲子園への近道となり、その先の可能性も見えてくるからだ。

能力を秘めた選手を獲得し、指導者が着実に実力を引き出していく。そのポイントになるのが、ピークの見極めと環境設定、自ら考える力の育成だ。

そうして生まれた最高傑作が、大谷翔平である。(敬称略)

※本連載は隔週金曜日に掲載する予定です。