日本で「教養主義」が失われた2つの納得する訳
東洋経済オンライン
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注目のコメント
>戦後の日本では、教養の意義を巡って教養主義論争が起きました。
>最大の論点は、教養を積むことが人格形成に意味があるかどうかで、意味があるとするのが「人格主義的教養主義肯定論」です。
>これに対して、教養を積むことと人格形成とは別物だと考えるのが「人格主義的教養主義否定論」です。
へー、そんな論争あったんだ。
あくまでも直感的なモノですが、私は肯定論派ですね。強要とはマナーのようなものを含む方が自然に感じられるので、教養を積むことと人格形成は関係すると思います。「人材教育」や「実学主義」みたいな要は大卒後に即戦力として働ける教育を推進するという馬鹿丸出しの教育が嘆かわしいことに受け入れられているからじゃないか、と私は考えています。
愚かな「それ、金になるの?」という目線で教育を測る俗物を一掃すると教養という言葉の重さに圧倒されている人達が残り、知的な社会が生まれると思います。興味深く拝読しました。
読ませる文章、どこから考えるのか、何が不要で、どこが論点か、そういった事を抑えた論説もまた教養の賜物なのだと思いました。
ヘーゲルの教養の定義からすれば、一部の政治家やTwitterやヤフコメの脊髄反射の言葉を思うと、教養は大事だなぁと改めて実感します。
>> 教養のはじまりとはつまり、実体的な生の直接的なありかたを離脱しはじめようとつとめることである。それがはじまるのはつねに、さまざまな一般的な原則と立場にかかわる知識を手にすることによってであるほかはなく、なによりもまずことがら一般にかんして思考されたものへと向上しようとつとめることによってである。