渋谷は「おじさんの街」化、新大久保は10代が溢れる若者の街に予期せぬ社会的背景
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注目のコメント
都市の富裕化現象(ジェントリフィケーション)の歴史は繰り返す。
これは、今に始まったことではなく世界的に見ても、ジェントリフィケーション(gentrification)と呼ばれる、都市の高級化や浄化を人為的に行ってきた。
有名な例として、ニューヨークのソーホー地区があげられる。もともとはマンハッタン島の中でも黒人の農地だったという歴史性から家賃が安く、広いスペースを求めていたアーティスト達が1960年代から住み始めたのがきっかけで文化の発信エリアとして変化、その後ウォール街に勤めているような富裕者層がそれに目をつけて多くの資金を投入することにより、今ではセレブ為のブティック街に変貌していった。
メリットとしては、街自体が浄化されて治安が良くなったり地域活性化にも繋がるとされているが、一方でその文化を形成してきた人種(=アーティスト)にとっては家賃が安いというインセンティブを受けられなくなり、結果追い出されて中身のない街になってしまうこと。
下北沢では線路の地下化によってできた空地を「下北線路街」と名づけ、そこに入居するカフェや雑貨店の若手起業家には安い賃貸で入居できるような取り組みをしているが、おそらくその背景には音楽や演劇のアートの街として文化を醸成してきた下北沢のまちづくりのコアの部分を失わずに、どうジェントリフィケーションを起こすかという背景が読み取れる。
記事にもある様に、やはり共通して言えるのは文化を生み出す「余白」をつくりだすことができるか、さらに言うとその余白に絵を描く為の「筆」を安価で手に入りやすい環境を提供できるかだと思う。単純な経済原理だけでなく、文化に間接投資する不動産オーナー達のリテラシー向上が益々重要になってくるだろうと思う。
参考:Aspects of change/ルース・ダグラス(社会学者)都市の盛り場は、容器ではなく中身が重要。つまり「出来事」が大事。広場しかり、イベントスペースしかり。「自分たちで街の文化を描いていける余白があるか」というのは、盛り場という舞台において自分自身が主役として演じられるかということ。平たく言うと「自分たちのまち」と思えるか。
渋谷のベンチャー企業に勤める40代のビジネスパーソンである自分は、まさにこの不動産会社を中心とした演出側の意図する「計画された」街のコアターゲット。良くも悪くも、この10年で綺麗な街になったと思いますし、集う人種は変わってきているように感じます。
都市論・盛り場論の名著である吉見俊哉氏の『都市のドラマツルギー』にも、1920年代の浅草⇒銀座のモダン、1970年代の新宿⇒渋谷のポストモダンという変化について面白い論が展開されていますが、2020年代、盛り場の構造変化がここから起こるのか。 同じ構造でいうならば、新大久保のさらに先の盛り場の隆盛がありそうに思えますね下記は東急の渋谷再開発情報サイト。
https://www.tokyu.co.jp/shibuya-redevelopment/index.html
20年ほど前、田園都市線に乗って渋谷に向かっていた時のとあるギャル男とギャルの会話。
ギャル男「(Bunkamuraで開催されていたピカソ展のポスターを見ながら)てかさ、ピカソとかって、こんなんやるだけで、こいつら来ないの?」
ギャル「えー、来ないよー」
ギャル男「でもさ、渋谷だぜ?渋谷だったらやっぱくるんじゃね?」
ギャル「あー!そっか!渋谷だもんね!来るよきっと!」
という会話が目の前で繰り広げられて、そもそもご存命ではないのですが…とか、彼等の中での渋谷の存在感はどれほど巨大なのだろう…的なツッコミを胸に秘めながら、何か温かい気持ちになった事を思い出しました。
彼等も今はおそらく30代後半。
新陳代謝しながらも、こういう人たちが憧れる渋谷であって欲しい、と個人的には思うのですが、上記サイトを見ると変わっていくのでしょうね。
意図する、しないに関わらず、街は変化するし、若者は若者で最適解を求め続けるでしょう。
と、変化やから取り残されたような、某ニュータウンから帰宅中で、色々纏まらないコメントになりました。