宗教と児童虐待、法整備は必要か 「信仰の自由」に自治体の考えは
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子どもの生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利が侵害されれば、どのような理由で侵害しようと子供は保護されなければいけないだけの話。そこに親だから許されることは断じてないということ。ただ、それだけ。
児相は戦争孤児の保護からはじまり、時にオウム事件、時に東北大震災、そして昨今は虐待、さまざまな背景を持つ子どもたちを保護する機関としてあてがわれてきました。正解のない課題に子どもという共通項だけで第一線に立ってきたように感じます。今年の騒動で、児相が新たなフィールドに向かうのであれば、より人員は厳しくなるばかりだなぁと。
わたしはキッチンカーで子ども食堂やりたい。
注目のコメント
輸血を拒否する宗教、武道の授業を拒否する宗教など、従来からある問題ではあります。
そして、特定の宗教だからといって対応が変わるわけではない、児童虐待防止法などに抵触する状況であれば、どのような宗教の信者であれ関係なく、行政や警察が介入する、というのが、日本版の信教の自由、政教分離である、ということで、これまでやってきました。
この記事の各都道府県の回答は、言い方は違っても、このことを言っています。
それでは、肉を食べない宗教は児童虐待か?(栄養バランスが崩れて入院したら介入するのか?)
学校の教科書と異なる内容の歴史や科学を子どもに教える宗教は児童虐待か?
これまでなら、まず介入の対象にはならないでしょう。
その他、宗教のせいで子どもがクラスで孤立するとか、子どもの進路が制限されてしまう、ということはたくさんあったでしょうが、民事不介入ということもあり、行政も警察もまず介入しなかったでしょう。
フランスなら介入もするでしょうが、あれは宗教と戦う世俗主義国家なので、日本とは明確に立場が違います。
日本は、宗教と関わりたくないだけです。
いくつかの子どもの人権は親の信教の自由よりも優先される、という原則を明確にするなら(たぶん憲法改正に盛り込む必要があるくらいの変化でしょうが)、日本の行政と司法でも介入できるでしょう。マインドコントロールこそが問題。
統一教会を「宗教」という括りで捉えるから議論になるのではないか。彼らのやっていることは、明らかに「マインドコントロール」の領域ではないだろうか。
作家、俳優、ジャーナリストである中村敦夫さんが、30年近くも前に書いた小説「狙われた羊」を読むと、その悪質さがよく理解できる。つい最近、文庫本で再発売されたので、ぜひ読んでいただきたい。何が問題なのか、そこに気づかされるはずだ。
狙われた羊
https://amzn.asia/d/chDERiJ宗教上の理由で子への虐待かどうかわからない、そこに法律という線引きで基準を設けることが正しいのかどうか。
日本では虐待と捉えられる行為が宗教上の行為という理由で許されるていいのかを考えれば、それは間違っているように感じます。「郷に入っては郷に従え」というように、日本という地域で済むからには日本のやり方に基準を合わせる方が良いと思います。結局、子供に苦しい思いをさせていることに変わりはないでしょうし、。その宗教上は認められている子への虐待のような行為も、他の地域では通用しないことを宗教の当事者たちが知ることで、良い効果を生む可能性もあると思います。