嫌いなものから逃げ続けた世界は、狭くてつまらない。
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分かるなぁ。私は中学校時代に音楽が嫌いなんだと錯覚したタチです。しかも理由は、先生がなんか無理、というもの。
導入から目標設定、指導やコンテンツも一切興味を持てなかったんですよね。だから、当時の授業はほとんどその場にいるだけ。何も得られなかった。唯一得たものは、無駄な時間だったという認識でしょう。今思えばクソガキだったなと思います。
しかし社会人になってみて、当時の時間は本当に無駄だったのか?と自分に問うことができた、という点では有意味だったのかもしれません。
そして、音楽は本当につまらないのか?と思う機会があり、実際に興味のあったギターを手に取りました。教員の仲間を集めてバンドも組みました。実は、音楽は好きだったんですよね。
物事のある一面だけを見て、自分の感情に蓋をしてしまうことがもったいない、というのは確かにそうだと思います。でも、「粗い解像度の嫌い」に向き合わず一生を終える人もいます。それも運命かもしれません。
今の私ができるのは、体育について、様々な面を見てもらった上で、高解像度の好きと嫌いを判断してもらう環境をつくることかもしれません。ホントにそう。
私は就活が嫌で逃げ続けてました。志も無いのに大学院に進学した結果、中退。気付いたら周りは社会人になってたので、つまらないというより、辛かったですね。必死に挽回しようと就活を再開した経験を買われたのか、今では会社の採用担当者です。就活から逃げなくていいよ、安心して、という姿勢を大事にしながら学生と接しています。(でもいま好きなものが5年後も好きとはかぎらないように、5年前嫌いだったものがいまも嫌いとはかぎらない。」
そう。
だからこそ、人生は長期的に構えていった方がいいということだと思う。
そう考えると、
「「好きなことをするのが正義」といわれるいまの時代に、「嫌いなものを好きになる努力をしろ」と主張するのだから。」
この2択も、近視眼的すぎる気がする。
正義とか努力すべきそういう話ではなく、人それぞれどう生きるかを考え続けて行動し、長い目で一つしかない人生を、これが良かったんだと捉える姿勢が大切だと思う。