「美白」や「はだいろ」が消える 日本は世界の動きについていけるのか
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注目のコメント
「そんな細かいこと…」「そこまで問題視するのか」「これまでずっとそうだったのだから」という声も上がるこのトピック。しかし細かいことだからこそ、立ち止まって考えてみることが重要なのだと思う。
「マイクロ・アグレッション」という言葉・概念は、まだ日本でそこまで馴染みがない。これは、言う側・使う側にとっては何気ない言葉、しかし言われる側にとっては強烈な言葉、ちくちく心が痛む言葉の積み重ね。
直接的であからさまな差別でなくても、日常生活を送る中で、もやもややわだかまりが溜まってゆく言葉があるということを、バーヌさんという方がご自身のnoteで綴られていたのを最近読んだ。
(https://note.com/onnahafumuslima/n/n2e5d0520855c)
使う側・マジョリティ側にとっては、そのほうが明確でわかりやすくて売りやすい。商業用にはデフォルメされた言葉も多く並ぶ。だからこそ、言葉が概念を作り出してゆくし、それが戦略でもあるから、この痛みに意識的になりにくい構造がある。
マイノリティに向かって「寛容になれ」と言うこととは全く違うのだということを、マジョリティ側が認識できるかを問われているのではないでしょうか。多様性が素晴らしい!というのは幻想である。
多様性を強要するのは破滅への道でしかない。必要なのは「違い」を認めることである。
このPicksのタイトル画像のような写真が世界中で、どれほど存在するのか?
日本は日本という固有の国土、風土から発生した文化があり、北欧も、北米も、南米も、中東も、それぞれ特殊だから価値がある。
「世界の動き」という言い方も問題だ。
その世界とは、どこのことを指しているのか?
日本におけるグローバル化とは、単純にアメリカ化(欧米化ではない)である。
だいたい、グローバル化という言葉には嘘しかない。
移民問題なども関連してくるが、受け入れることが世界標準だから日本も受け入れなければならない!という考え方は、思考停止だ。最近、PowerPointで資料作る時にも気にしています。
背景画像として人の写真を使うフォーマットを使う時があるけど、人の多様性に気をつけています。
白人ばかりにならないように、とか、男女比とか、それぞれの画像の大きさや画角とか。
本質じゃないそんなことを考えても、実際に資料を見せる相手はそんなことを気にもしていないとは思ってはいるのですが、気をつけることを自分にクセ付けるためにやっています。