検証:広がる五輪懐疑論 開催可否で政局、聖火は尻すぼみ | 毎日新聞
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感染拡大リスクと医療のキャパシティーをきちんと評価すれば、自ずと結論は見えてくるのでは。
政府がリスクをどのように評価し、それに基づきどのような対策を練っているのかが具体的に見えない限り、首相がいくら「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じ、国民の命と健康を守っていく」と繰り返しても、説得力はありません。
<IOCは契約を解除して中止を決める権利があり、その場合は日本側が補償や損害賠償を請求する権利を放棄する旨が記されている。一方、日本側に中止を決める権限はなく、災害などの場合に契約を解除できる不可抗力条項は盛り込まれていない。>
そもそも、こんな不平等な契約もおかしいですよね…
注目のコメント
クーベルタン男爵が古代オリンピックの精神にあこがれて近代オリンピックをつくり、そこから現在までスポーツによって平和に貢献することを大きなオリンピックの目的としてきました。その大前提の思想には古代オリンピックのエカテイリア(休戦協定)があって、これは単純にオリンピック中に戦争や戦闘はやめましょうというものではなく、戦争下であってもオリンピック開催とその関係者の安全は保たれなければならないという考え方であり、オリンピックを開催することが平和の証であるという逆説的な考え方でもあります。そこに則って考えれば、オリンピックができるのかではなく、平和の証のためにオリンピックをやろうよ、という考え方です。
今、自分の状況が平和ではなくとも、平和のために協力しましょうという「利他」的な思想です。この考え方はつながっていけば日本を良くし、世界を良くします。自分は少し損をする可能性はあるかもしれないけれども全体の大きな利益になる。それは日本がよくなって住みやすくなることに繋がるわけだから、大局的に自分一人で何かをやっていたときよりも大きな社会的利益になるでしょう。自分を助けるのは自分です。ここはかなり大事なところですが、かつ自分以外の利益になることも積極的にやっていくことが今後のもとめられるのではないかと思うわけです。もちろんこれは自発的に行われなくてはならないことですけれど。