日本のコロナ状況「この程度のさざ波」「五輪中止とか笑笑」菅首相が任命、内閣官房参与の発言に批判
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菅さんの繰り返される「国民の命を守る」発言に対比すると、それを小馬鹿にした発言という感じが否めない。
海外と対比してなんの意味があるのか。日々命が失われ、感染に苦しむ人がいて、感染に怯えて暮らしている人がいて、経済的損失に苦しむ経営者、商店主、解雇された人々がいる。これらのことに思い至るのが政治に関わる人ではないか。
さすが、前衛の官僚、民は愚かな存在で、よらしむべからず、しらしむべからず、だまって聞いてろか、という感じだ。
注目のコメント
エビデンスをベースにした政策決定が求められている中、エビデンスのコミュニケーションも重要であると考えさせられる記事。ファクトを述べることと、コミュニケートすることは同じではないのだな、と。特に、今回のように、政治的な立場で発言するならば、もう少しストラテジーを練って、どのような目的でどのような発言をし、どのような効果を期待しているのかをもっと考えてもよいのでは?
人間を「数」や「データ」に置き換えると、そう見えるのでしょう。数多の経済学の欠陥がここにある。
人間を「数」と「データ」で捉え、その指標が、絶対的な効力を持つ恐ろしさを警鐘している人が、あまりに少ない。
生産性という言葉もそうだ。いつから、人間はロボットに成り下がったのだ、、、或いは、時給という考え方も、究極、人間を単なる道具としてみる発想だ。
考えてみると、産業革命以降の、工業型モデル、軍事組織型モデルが、我々の中に染み付いている。経済を中心にモノを考えると、人間を単なる「数」と「データ」にだけ見えてしまうのだろう。
さて、コロナ感染で毎日たくさんの人が亡くなっていて、その家族や関係者の悲しみは、「数」に表せますか。日々、奮闘されている医療現場の方々の苦労は「データ」に表せますか。
この人の発想から、私達自身にも、染み込んでしまっている近代からの脱却を真剣に考えないとな、考えてみた。つい先日までデータと科学的根拠を持って判断しろと政府に要求していた人間がデーターを出されると感情的な反論をする不思議な現象がおきてますね笑
日本政府がデータを持ち出して説明できない最大の理由は大多数の国民がデータもとにした不都合な真実を受け入られないからです。
日本は民主主義。政府の方針は我々国民の民意の写し鏡に他なりません。