東京五輪を開催すべき論理的な理由、「聖火リレー中止」に走る自治体の無責任 - 上久保誠人のクリティカル・アナリティクス
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大学教授が書いた「東京五輪を開催すべき論理的な理由」というから、興味深く読んだ。
残念ながら、「論理的な理由」にはほど遠く。ご自身の主観的を評価を書き並べたもので、面白いが、一つの意見、感想というだけ。
確かに、「開催を妨げる問題点を論理的に解決しなければ、五輪開催は不可能」というところは、論理的だ。
しかし、「客観的に見て、東京は、条件が世界で最も整っている都市の一つ」であることの論証がなされていない。
「評価が高い」とされる、「日本国民の規律ある行動」や「まちの清潔さ」、「日常的な医療の充実」は、誰が、どのように評価したものかは明示されていない。スポーツイベントが問題なく開催されているのは日本だけではないとされるので、日本は優れているとされる自説の論拠にはならない。
「だろう」「するはず」とされるいくの観察も、意見であって、論証ではない。
ましてや、「開催の意義はアスリートのため」というのは、まさしく意見でしかない。「アスリートのため」とは何のこと?
アスリートの経済的利益、心理的効果、立身出世の機会という社会的利益、何だろう?厳密な表現ではない。
網羅的な装いだが、特に、反対意見による反論について、分析が十分ではないのが、網羅性を妨げるている。全体として、意見や感想が多く、肝心の論理的理由が豊富ではない。
論証が乏しいことは、主観的表現を全て削除し、事実と数字だけを残してみると分かる。ほとんどに記述が消えるように思う。
断片的事実ならば、断定せず、そういう事実もあったという記述に留めるべきだったと思う。
新規感染者が激増し、死亡者が毎日増えている事実、大阪府での医療崩壊の事実、外出自粛要請を尊重しない国民はが多い事実などどのように評価されるのだろうか?
注目のコメント
「アスリートの活躍の場を確保することこそが、コロナ禍に苦しみ、荒れがちになる我々の心を支えるのではないだろうか。」
その仮説を立てる以前に、中止や延期の意見が7割という事態を無視している時点で間違っています。
単なる、感想だな、という記事でした。東京五輪を開催できる理由については記事に同意。そのうえで、私は、開催すべきというより無観客になっても中止すべきではないという考えに立つ。まずは開催そのものの是非について政治的なものと中立に考えたい。
コロナ禍の国難だからこそ日常を保つ意義がある。コロナ禍で可能な範囲でやればよい。仮に無観客になったとしてもそれはそれで新時代のスポーツ&エンタメビジネスの先例を示す機会ではないか。それこそ東京2020の「レガシー」だ。仮に中止したら日本人ひいては人類が新型コロナに屈服したことになる。
ここまで引き延ばし五輪中止の相場はかなり高値になった。ここで中止の前例をつくると今後非常時に際して鳴り物禁止に振れるかもしれない。野球もサッカーも大型店の営業も右ならえで中止を求める圧力が高まるだろう。この非常時に何やってんだの話になる。それは日ごろ中止論に与する革新系の人たちも避けたいシナリオではなかろうか。1940年東京五輪が戦争遂行を理由に中止に追い込まれた轍を踏んではいけないと思う。
同じことだが、五輪に回すお金をコロナ対策にという考え方もリスクをはらむ。緊急性のない、余人にムダに見えるが大事なものは世の中にたくさんあるからだ。芸術、基礎研究、意匠を凝らした建築物しかり。目の前に困った人がいても教育や防衛は欠かせない。
コロナ禍は100年に1度の国難だが、東日本大震災は1000年に1度の国難だった。これからも同じレベルの国難は次々やってくる。中長期的な取り組みを放っておいて目の前の緊急事態に全余力を費やすわけにはいかなくなる。五輪中止をきっかけに目に見える危機しか見ない世の中になっては後悔する。
そもそもコロナ禍にまだ打ち手はある。
①一律休業の代りにクラスタ限定の営業停止及び公表
②補償金の代りに休業対策事業の予算化
③医療機関ロジ、ワクチン準備の休業対策事業化
④広告枠の買上と絨毯宣伝
⑤大企業に在宅&DX要請及び実績管理
⑥災害派遣に準じた接種体制