ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの
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注目のコメント
女性のホームレスの方は良くも悪くも目立つので、近所で見かけていた方が見当たらなくなると、気が付きますし心配にもなります。
ひと昔前と違ってホームレスの方も小綺麗にしているので、迷惑と感じることはありません。そして昔との違いを考えてみると、挨拶したり目を合わせたりすることが無くなりましたね。
またホームレスに限らず、街中で交流をする空間や時間が、特にこの数年の東京近郊では失われつつあるように思えます。一方で第三者からはホームレスが目立つようになっているようにも思えます。つまり、街の中で人間が浮いているように感じるんですね。
経済活動の主体は人間だと思い込んでましたが、生身の人間同士で交流をするのはオフィスやお店の中で、最近は再開発したビルの中に隠されてしまってます。
ネットで交流が出来るようになって海外の友人とも気軽にTV通話で会えます。しかし、空中の箱に閉じ籠って2次元の板に向かい続けたり、外に出ても手元の箱に注意ばかりしていると、自分の足下での出来事や自分の目線の高さで起こっている出来事を見逃してしまい、現実感を持てなくなりつつあるのかもしれません。
存在するのか実感を持てないテレビの中の専門家よりも、身の回りで生きている人達の存在を感じられなくなりつつあるのなら、子供のゲーム依存を批判するように、大人もリアルを取り戻すための処方が必要なのかもしれません。
本記事の放送を見て考えてみようと思います。
追記
ジェイン・ジェイコブズの「アメリカ大都市の死と生」の都市の多様性を生む4つの条件を読み直してみました。第二の条件のほとんどの街区は短くてはならないの本意である、都市の街路すなわち道の機能の多様性について。
都市だからこそ、道ですれ違う匿名の人々が活動していることに出会う場が重要という主張ですかね。区画整理が進んでスーパーブロックばかりの街は国土強靭化として建物は守れても、ソフトな人や社会関係資本は守れないのかもしれません。
日本の街道も文明開化の頃までは、格子戸と道が一続きの空間で、お雇い外国人も笑顔ながらも興味本位の視線を感じていた記録も有り、内と外の開放系が成立していて、昭和の末期もまだそれは残っていました。
引きこもりを強制された2回目のGWでは、外との繋がりをネットやメディア以外でも感じたいですね。胸が締め付けられる記事。
自分は何ができたんだろう。これから何ができるだろうと考えても途方に暮れてしまって、自分を不甲斐なく思う。
でも、この記事を読んで、被害者女性のことを知り、同様の方々が社会の片隅にいるのだと考えられるようになったことは、良かったと思う。
番組は、本日5月1日(土)午後10時40分 総合テレビで放送とのこと。今夜のドキュメンタリーを見て。
男から暴力を受けた事が、人生の歯車を狂わせたのではないのか。
大林さんは、若いころの結婚相手からの暴力が原因で離婚をし、
独りの生活になり、またそれを続ける事になった。
また、番組に出てきた路上生活経験者の女性も、
父親からの暴力から逃げるため、家出や路上生活につながって行った。
そんなに単純な構図ではないだろうが、
あの時、こんな事がなければ、
違う人生になっていたのではないか。
寝るにはしんどいが、明るくて人目につくバス停のベンチで体を休められていた時、
何を思って、夜を過ごされていたのだろうか。
人に頼るという決心が大切だという事を心に刻んでおこう。