共通テスト記述式、断念が濃厚 文科省会議「課題未解決」
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企業の選考では、ここまで「平等性」が重要視されることはないと思いますが、
入学試験では、「採点基準が明確」という点がことさら重視されるように感じます。
これは、教育に、育成よりも選別の要素が強すぎるから起こっているように思います。
そもそも、今育てようとしているのは、「明確な答えのない問題」に対して主体性を持って解決に向かえる人材のはずなのですが、共通テストの話になると、誰もが、「基準を明確に」となる気がします。
そして、その共通テストを効率よく解くための教育が多くの高校で行われます。
真に、「明確な答えのない問題」に向かえる人間を育てようとするのならば、根本から考え方を変えなければいけないように思いますが……。
新学習指導要領では「主体的、対話的な深い学び」が重視されていますが、果たしてその学びを評価して、選別することはできるのでしょうか?
選別に適さない力を重視するのであれば、偏差値で社会階層を分ける考え方からの脱却が必要だと思いますが、なかなかそこから自由になるのは厳しいようにも思います。これはもう酷いとしか言いようがないと、私は思います。
記述式は本来、各大学の裁量に委ねられるべき問題であるはずです。
センター試験のままで良かったと思います。その枠組みの中で、教科を組み替えたりすればよかっただけです。暦本純一著『妄想する頭思考する手』の中に,「試験のときだけ『裸の頭』の学力を測定することに,もはやどれだけの意味があるのか.」という一文があります.
普段文献などで先行事例を調べたり,ググることが日常の中,試験のときだけ,知識量を問うことは果たしてどれだけ重要なのか?ということですが,そもそも記述式の問題で何を問おうとしていたのか,もう一度考えてみれば,未解決になりそうな課題であったことは明らかなような気がします.
ただ,難しいのは入試を改革することで,暗記一辺倒の試験からの脱却を目指し,答えのない問いに向き合える資質の高校生を集めるという意図がどれだけ伝わるか?さらに,そういう学生だけを望むことで,どれだけの大学が生き残れるのか?
単に試験制度の問題だけではないところにも目を向ける必要はあります.
単にFランクの大学がいらないみたいな安易な考えで済ませる問題ではないことは知って欲しいと思っています.