「俺はお前らの素材かと悟った」「次に命が助かるのなら、震災は忘れてもらってもいい」東京キー局が続けてきた被災地報道の“罪” 【ABEMA TIMES】
コメント
注目のコメント
以下など読むと、問題の本質はジャーナリズムの「セントラルキッチン化」なのではと思う。
レシピも加工もあらかじめ固まっていて、現地は手を動かすだけ…という、セントラルキッチンでファーストフード生産する感じの工程が報道でやられているのが問題なんではないか。
平均的な視聴者にアピールし一定レベルの視聴率を獲得するために練られた手法で物事を切り取って流す方向に最適化しすることに慣れてきっていて、それが地域の固有の問題をすくいあげるのに全くそぐわないやり方であることに気づいていない(か、気づいていないふりをしている)のでは。
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> やはり共通しているのは、“ストーリーありき”ではないかということだ。そして、そのためのピースを探しに行っているということだ。本来、取材に行く時には仮説を持って行くが、現地で話を聞いているうちに違うと思えば方向転換して進めていける。しかしここに東京、キー局ならではの問題がある。それは分業制だ。取材に行くディレクター、記者、アナウンサーが構成・企画をし、原稿執筆と編集も行えればいいが、すべてが分業になっているので、どうしてもピースを埋める、ということが現実に出てくる。そこに抗わないといけないが、現場で取材する人の立場が弱いと“こういう画だけ撮りにきた。こういうコメントだけ欲しい”というようなことが起きてしまう。
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面倒なのは前段でも出てきたような「ジャーナリズムは権力監視が仕事」というある種の"主義"が絡んでくる事だが、実のところその主義が正しいか誤っているかは本質の話ではないと思う。単に『扱い方のセントラルキッチンっぷりが全く素材を台無しにしている』という、実のところ純然と方法論の問題なのではと思う(いまの時代『反権力だからダメなんだ!』みたいな主張の方がウケが良かったりするので、この話題もそういう理解をしがちだが、そういう思想ではなく手法の問題では?という指摘をあえてしておきたい)。