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【震災】あなたはこの「10年間」をどう振り返りますか?

NewsPicks編集部
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    DRONE FUND/千葉道場/ 投資家/航空パイロット

    あの日から10年となりました。改めてこの大きな節目にて、震災・津波で亡くなった多くの皆様の御冥福をお祈りすると共に、被災した全ての皆様のご復興を祈念いたします。この日に向けて多くの報道もあり、私たちが経験したことのない未曾有の災害は絶対に忘れたり風化したりすることがあってはならないと思います。報道や特集をしっかり見て、胸に刻みたいと思います。

    私自身も日本の自宅が鎌倉市の海辺にあり、まさに津波は常に生活の脅威です。鎌倉市全体としても津波に対する訓練や警戒は意識が高く、保育園や学校も地震発生後1分くらいで避難開始する抜き打ち訓練がされてます。

    その中で、自分がこの震災後10年で取り組めた1番大きなことは、ドローン・エアモビリティの実現化と社会実装化推進です。どの被災地の空も未活用で、道路が寸断され、渋滞し、緊急車両や物資を運ぶこともままならない被災地の現場の状況をニューで見るたびに、「空から人やモノを運べたら、どんなに被災地の役に立つだろうか」と考えてきました。もちろんテクノロジーは万能ではありませんので、過剰な期待や夢はできない現実もあります。それでも、私たち日本は災害と戦っていかなくてはならず、法整備とテクノロジー、公共事業と民間産業化のバランスとスピードを持ち、常に日常的に空が利活用されることで、いざ災害発生時にもスムーズな災害空利活用が実現すると信じてます。

    ドローン、エアモビリティ(空飛ぶクルマ)は、3つの役割を有しています。

    ①意思決定を支援する「リモートセンサーとしての役割」

    ②作業を支援する「フィールドロボ ットとしての役割」

    ③輸送・移動を支援する「モビリティとしての役割」

    の 3 つです。

    「ドローンやエアモビリティのソリューションを水や空気、インターネットのように当たり前に享受できる社会」
    =「ドローン・エアモビリティ前提社会」の追究

    が、10年後、20年後の誰かの命を救い、暮らしを支えることになると信じ て、引き続き空という新産業の普及にむけ、私自身及び強い絆の同志たちとコミットしてまいります。

    応援ください。よろしくお願いします。


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    株式会社ポーラ 代表取締役社長

    震災10年。復興10年。もう10年なのかまだ10年なのか。
    石巻出身の私は帰るたびに逞しく変化している故郷の姿に励まされている。ただ石巻の人口は2万人も減り、市の中心も内陸へ移動。海沿いの街は未だ更地のまま、海岸線も変化、海と川と共に生きてきた故郷の姿は大いに変貌を遂げました。まだまだ復興途上。
    そんな故郷に何ができるか模索し続けた10年。祈り続けた10年。
    震災翌月の4月、なんとか助かった親戚に物資を届けに行った時に見た光景は忘れられません。そこで住み、暮らしを立て直し、次世代に向けた取り組みをする人々の努力はいかばかりかと。
    実家はすでにないけれど、友人たちもほとんど残っていないけれど毎年「ただいま」を言いに帰る場所です。
    忘れずに、そこを訪れること、続けていきたいです。

    震災10年の今年小学校からの友人が直後から立ち上げた石巻日々こども新聞が吉川英治文化賞を受賞。コツコツ続けてきた次世代育成の活動が評価されて嬉しいニュースでした。

    https://kodomokisha.net/


  • 私は宮城県名取市出身です。10年前、小学校の体育館でバスケットボールをしていました。地震が起きて校庭に避難。校長は帰宅指示をしました。そして海沿いの家へ帰った学生はそのまま津波に流されてしまいました。私の家は津波が庭まで来ましたが幸い何もありませんでした。
    次の日、道端のあちこちに洗濯機や車、靴やランドセルが落ちていた光景を今でも覚えています。数日後音楽室で生徒だけで行った卒業式にて、親を亡くした同級生が変わらない立ち振る舞いをしていた姿が小学生ながらとても心苦しかったです。

    10年経ち大学4年になりました。間もなく社会人になります。10年という節目で注目されていますが今後は風化がより強まるでしょう。その中で自分ができることはこの出来事を忘れず、当時見た光景と恐ろしさを周りに伝えていくことだと考えています。


  • 震災当時、就活で仙台にいて多賀城市で津波に流されましたが、第一波で逃れたので運よく助かりました。
    地震があった3分間は本当に長く感じて、揺れている時に「まだ死にたくない」という思いしかありませんでした。

    震災後は、私が住んでいた地域は水道が2週間止まり、電気が1ヶ月止まり、改めて当たり前の生活に感謝する気持ちが強くなりました。

    あれから10年、振り返ってみて自分の生死を分けたのは運もありますが、この行動があったからだと思っています。

    ・日頃から地震があったらどんな行動をとるか家族で共有する
    海沿いに住んでいたこともあり、日頃から地震があったらどうするという会話が日常茶飯事でされていました。
    そのため、震災の際もパニック陥ることなく行動ができました。

    ・家族の位置情報は事前に把握する
    家族がどこにいて、何をしているのかを把握していたので連絡する際に、誰に最初に連絡するべきか冷静に判断して行動できました。

    ・安全な場所に避難したら、可能な限り情報収集をする
    当時、ウォークマンを持っていたので揺れが収まり安全な場所に避難したら直ぐにラジオで情報収集をして、何処に津波がきているかを把握して家族に連絡することができました。
    情報収集の際、スマホは連絡手段として残すために使用しないようにしてました。

    ・自分の身は自分で守る
    私自身、震災当時母が家族の中で一番海沿いに近いので、とりあえず合流しようとして津波に流されました。
    亡くなった人でも、助けに行こうとして津波にのまれた人が多くいます。
    なので、まずは自分の身は自分で守るのが大切だと思いました。

    ・奪い合うのではなく、分け合う心を持つ
    震災後に、私の住んでいた地域では近くのスーパーが無償で食糧を配給したり、バイト先から食糧をもらったりなど、独り占めするのではなく皆んなで困難を乗り越えようとする人が多くいたので本当に救われました。


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