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石巻出身の私は帰るたびに逞しく変化している故郷の姿に励まされている。ただ石巻の人口は2万人も減り、市の中心も内陸へ移動。海沿いの街は未だ更地のまま、海岸線も変化、海と川と共に生きてきた故郷の姿は大いに変貌を遂げました。まだまだ復興途上。
そんな故郷に何ができるか模索し続けた10年。祈り続けた10年。
震災翌月の4月、なんとか助かった親戚に物資を届けに行った時に見た光景は忘れられません。そこで住み、暮らしを立て直し、次世代に向けた取り組みをする人々の努力はいかばかりかと。
実家はすでにないけれど、友人たちもほとんど残っていないけれど毎年「ただいま」を言いに帰る場所です。
忘れずに、そこを訪れること、続けていきたいです。
震災10年の今年小学校からの友人が直後から立ち上げた石巻日々こども新聞が吉川英治文化賞を受賞。コツコツ続けてきた次世代育成の活動が評価されて嬉しいニュースでした。
https://kodomokisha.net/
地震があった3分間は本当に長く感じて、揺れている時に「まだ死にたくない」という思いしかありませんでした。
震災後は、私が住んでいた地域は水道が2週間止まり、電気が1ヶ月止まり、改めて当たり前の生活に感謝する気持ちが強くなりました。
あれから10年、振り返ってみて自分の生死を分けたのは運もありますが、この行動があったからだと思っています。
・日頃から地震があったらどんな行動をとるか家族で共有する
海沿いに住んでいたこともあり、日頃から地震があったらどうするという会話が日常茶飯事でされていました。
そのため、震災の際もパニック陥ることなく行動ができました。
・家族の位置情報は事前に把握する
家族がどこにいて、何をしているのかを把握していたので連絡する際に、誰に最初に連絡するべきか冷静に判断して行動できました。
・安全な場所に避難したら、可能な限り情報収集をする
当時、ウォークマンを持っていたので揺れが収まり安全な場所に避難したら直ぐにラジオで情報収集をして、何処に津波がきているかを把握して家族に連絡することができました。
情報収集の際、スマホは連絡手段として残すために使用しないようにしてました。
・自分の身は自分で守る
私自身、震災当時母が家族の中で一番海沿いに近いので、とりあえず合流しようとして津波に流されました。
亡くなった人でも、助けに行こうとして津波にのまれた人が多くいます。
なので、まずは自分の身は自分で守るのが大切だと思いました。
・奪い合うのではなく、分け合う心を持つ
震災後に、私の住んでいた地域では近くのスーパーが無償で食糧を配給したり、バイト先から食糧をもらったりなど、独り占めするのではなく皆んなで困難を乗り越えようとする人が多くいたので本当に救われました。
関係先の皆さんは、各々感じるところがあったはずですが、それぞれご自身のやるべきことに必死で集中されていました。そんな中、関係先の仕事の役に立たない私に対して、ある人から「あなたは早く東京に帰って自分の立場で我々を支えてくれ」とはっきり言われたのをきっかけに、少しだけ目が覚めたのを思い出します。
とはいえ、動き出した新幹線にのるために会津をひとり離れる時は、ずっと複雑で重い気持ちでした。
その後、何ができるのか?と考えていました。もちろん、自分の本職でやれることはやったと思いますが、それだけでいいの?という思いも続いていました。
そして、これも福島のある方に言われたのが「別に何もしなくてもいいよ。ちょっとだけ東北のことを心に留めておいてくれればいい。」ということでした。今でもこの言葉を思い出すとちょっと涙が出そうになります。
折に触れて、少しだけ東北・福島のことを思う。機会があれば東北産のものを買ってみる。気になった震災関係のニュースを見て考えてみる。そんなことしかできませんが、今後も心に留めておきたいと思います。
ただでさえマズイ状況なのに震災後の暗い雰囲気で自分もどこまで堕ちていってしまうんだろうか??と不安を募らせる毎日で、自分自身が人生を再建しないといけないにもかかわらず、どうしていいかわからず被災地支援に精を出すことに。
震災後の4月-5月は苦し紛れに大田の花卉市場で仕入れた花でブーケをつくったりして表参道Gyreの前の特設スタンドで販売、売上金をすべて震災復興基金へ寄付したり、そんなことをして過ごしたのを覚えています。
なかなか気持ちが晴れないなか「心を燃やしたい!」と思って震災の年に始めたのがトライアスロン。これが自分の人生を劇的に変えてくれた転機になりました。
いま思えば、ただ単に自分が本当に向き合わなければいけない課題から逃避していただけなんですが、でも、おかげで精神衛生が良くなり、どん底から這い上がらせてくれたんだなとトライアスロンの神様には心底感謝しています。
人間誰でも生きていればしんどい時、試練の時があります。もちろん克服しないといけないんですが、エネルギーを蓄えるために一時的に「逃げる」ことも必要です。徹底的に逃げる。逃げまくる。
そうすると、現実を受け入れるエネルギーがまた湧いてきます。そのときをじっと待つ。うまく行かないときは「いまは頑張ったらいけないタイミングなんだな」と言い聞かせる。
他人は自分が気にしているどうでもいいことには無関心。
一方で、他人は自分が思っているほど自分に無関心ではありません。
なぜかレースに出場していると、赤の他人であるはずの多くの地元の人、ボランティアの人たちがあり得ないくらい応援してくれます。これが生きる力になるんですよね。人生コツコツ頑張っている人のことは必ずどこかに応援してくれる人がいるものです。
10年前の震災から自分はそんなことを学んだ気がします。
私自身も日本の自宅が鎌倉市の海辺にあり、まさに津波は常に生活の脅威です。鎌倉市全体としても津波に対する訓練や警戒は意識が高く、保育園や学校も地震発生後1分くらいで避難開始する抜き打ち訓練がされてます。
その中で、自分がこの震災後10年で取り組めた1番大きなことは、ドローン・エアモビリティの実現化と社会実装化推進です。どの被災地の空も未活用で、道路が寸断され、渋滞し、緊急車両や物資を運ぶこともままならない被災地の現場の状況をニューで見るたびに、「空から人やモノを運べたら、どんなに被災地の役に立つだろうか」と考えてきました。もちろんテクノロジーは万能ではありませんので、過剰な期待や夢はできない現実もあります。それでも、私たち日本は災害と戦っていかなくてはならず、法整備とテクノロジー、公共事業と民間産業化のバランスとスピードを持ち、常に日常的に空が利活用されることで、いざ災害発生時にもスムーズな災害空利活用が実現すると信じてます。
ドローン、エアモビリティ(空飛ぶクルマ)は、3つの役割を有しています。
①意思決定を支援する「リモートセンサーとしての役割」
②作業を支援する「フィールドロボ ットとしての役割」
③輸送・移動を支援する「モビリティとしての役割」
の 3 つです。
「ドローンやエアモビリティのソリューションを水や空気、インターネットのように当たり前に享受できる社会」
=「ドローン・エアモビリティ前提社会」の追究
が、10年後、20年後の誰かの命を救い、暮らしを支えることになると信じ て、引き続き空という新産業の普及にむけ、私自身及び強い絆の同志たちとコミットしてまいります。
応援ください。よろしくお願いします。
個人的にもこの日は忘れられない日です。
その後も、各地で起こる天災。
その度に、人は忘れる生き物だと感じる。
良い意味でも悪い意味でも。
年表に新潟中越沖地震(M7.0以上ではないものの大きな被害があったかと…)がないし、阪神・淡路大震災もこれほど大きく特集を組まれていなかったように思います。
震災のたびに、建築の限界を思い知らされます。
東北大学の五十嵐教授が撮影された被災地の写真を見て、想像以上の津波の力に衝撃を受けました。
鉄筋コンクリート造の建物が杭から引き抜かれ、横倒しになっている状況なんて、想像だにしていませんでした。
自然の力には勝てない。
でも、少しでも安全に暮らせるよう、日々の研鑽が必要な業界だと思います。
無料公開は終了しましたが、下記のように日々研究が進められています(動画で見る大地震対策)。
https://newspicks.com/news/1435496
熊本地震の時は、数多くのコメントをさせていただきました。
震度7が連続して起こるなんて、想像できていなかった。
下記記事は注目はされませんでしたが、印象に残っています。
https://newspicks.com/news/1437386
「建築はなぜ震災復興で信頼されなかったのか」
耳が痛い。
ですが、決して目を背けてはいけない指摘。
建築家は、理想のためには努力を惜しまない。
ただ、その理想は、本当にニーズを反映したものだろうか。
記事内の「大義のために清濁併せのむ度量も求められるでしょう。」という言葉が重い。
個人的には、2011.3.11の翌日が結婚式。
式は京都で挙げたのですが、私たちは神奈川在住。
妻がブライダルエステから帰ってきて、京都に出発という瞬間に地震発生。
日本全体が追悼雰囲気の中、翌日動き始めた新幹線に乗ってボロボロで京都に到着。
関東からの、特に僕関係出席がなくなり閑散とする中、盛り上げて温かく迎えてくれたのは、阪神淡路大震災を経験した妻の友人たちでした(妻が関西出身で被災時は神戸勤務でした)。
この経験から、地域活動で防災に取り組むきっかけとなりました。
ただ、昨年予定していた初の行政からの依頼による防災イベントは、コロナ禍で中止に。
今の日常は、明日から日常ではなくなるかもしれない。
当時企業再生ファンドにおり、その投資先が福島にあり経営チームとして現地入りした直後のことでした。
震災から数日間、原発付近の避難区域は、事態の深刻度と同調するように、3km、10km、20km、…と次々と拡大していきました。
自分がいた会津は原発から95km。まだ余裕はあったものの当時は放射線が迫ってくる錯覚に陥っていました。思い返せば、自分はその危機感を足元の震災対応に集中することで、精神の均衡を保っていた気もします。勇ましさのかけらもなく内心は戦慄していました。
自分はバス・タクシー・旅行代理店をマネジメントしていたのですが、旅行はすべてキャンセル。手数料なしで払い戻し。
高速バスが走る高速道路は、緊急車両しか通れず、収支のめどがつかず。市内を走るタクシーは震災の影響で電話は一時的に不通。
そして何より燃料不足が深刻で、バスが走れるタイムリミットも迫る。
思い返せばその時の自分にあったのは「会社を救うために、あるいは福島に貢献するために何としてもやってやる」という勇ましい思いでは決してなく、「今この状況にある自分にはもはや逃げ出す選択も、やらない選択もない。消去法的には腹をくくってやるしかない」という何ともいえない悲壮感だったように思います。
周囲の仲間の平常心である様子に感銘を受け、一方の自分は平静を装いながらも逃げ出したい情けない気持ちも少なからずあり、そんな葛藤の中で必死にジタバタしながら仕事をしていました。
その3年後、そのジタバタ感が粘り?に通じたのか、再生を果たしたその企業は、今はIGPIグループのみちのりHDG傘下となり更に磨きがかかっています。
それから更に7年。
最近すっかりその当事者としての感覚が薄れている自分にも気づきます。
改めて思うのは、当事者になるのと、当事者である(あり続ける)のは、大きな飛躍があること。
自分が当事者になったのは偶然でも、そこを離れた後に、当事者でい続けること、コミットし続けることは本当に難しい。
ただ考えてみると、そんな当事者感というか、それを取り巻く自分の人間観や仕事観を作ってくれたのは、3.11を通じた身体感覚であることは間違いない。
言い換えると常に自分の中に福島での身体感覚は確かにあるわけで、その感覚を改めて今日は自覚し、10年間の福島に思いを馳せたいです。
「毎日を生きよ、あなたの人生が始まった時のように」ゲーテ
4月からの授業では、被災地へのボランティアに行った学生が4割。学生の目が違っていました。
あれから10年。