やさしい職場が「心理的安全性」が高いわけではない
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この感覚、意外と伝わらないところありますよね。
「必要なら厳しいことも言えるのがやさしさだよね」的見地に立てば、心理的安全性=やさしさなのかもしれない。
曽和さんご自身もコメントされているように、信頼関係があるから全力で議論できるし、切磋琢磨するイメージで捉えてます。
ヒト(人格)とコト(仕事)を分けて考えるとか、ずっと言われてきたこととベースは共通しているんだと思う。
ただ、まだ心理的安全性が担保されていない組織においては、経営者(または上司)とメンバーの関係性で、メンバー側に先に会社や相手を信じろというのはしんどいだろうから、まずは経営主導でやっていく必要があるのかなと。
自分のいる組織でも、お互いリスペクトする、先に相手を信じる、といった言葉も使いながら、なんとか感覚を伝えたいなと試みています。
注目のコメント
ものごとをより良くするためには様々な視点での議論が必要になる。既に起こっている事象も、見る角度や感心度合によって評価が分かれる。一人で全てを俯瞰して見ることは不可能であり、"思い込み"を完全に排除して見ることも出来ない。自分以外は、異なる思考性をもつ人間であることをポジティブに捉えるだけでも受け取り方が異なると思う。自身とは異なる意見やアイデアに対して抱く違和感を、上手く活かしたい。違和感はなぜ起こるのかを自問自答するだけでも"気づき"がある。ものごとをより良くするためのプロセスとして考えたいですね。
「バカにするとかしないとか、そういうマウンティングの取り合いではなく、意見の内容だけに焦点を当てて、ガツガツ議論しあう。」
これが日本人には難しい理由は何でしょうか。
日本語は、「内容」ではなく「相手」に反応する言語だと言われます。
「英語が得意ではないのですか?」という否定疑問文に対しては、得意でない場合、日本語では「はい」と答え、英語では「No」と答えます。
言語構造として、最初から「内容」ではなく「相手」を否定することが組み込まれているように思います。
定時制にはコミュニケーションに苦手を持つ生徒が多いですが、google jamboardのように付箋を貼り付けるアプリを利用すると次々に意見を出し、意見の良し悪しにコメントをすることもできます。
これは、人格と意見が切り離されているからだと感じます。
おそらく、日本人には、意見と人格を意識的に切り離す訓練が必要なのだと思います。プロ同士が激しく率直に意見を闘わせながらも、信頼関係は損なわれない。そんなイメージが「心理的安全性」にはあります。「切磋琢磨」に似たようなイメージですが、いかがでしょうか。