「説明責任」という文化をもっと日本に取り入れるべき理由
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「説明責任」(=アカウンタビリティ)という言葉は、なにか問題が起きた際にメディアが好んで使う言葉であったり、一部専門家のみが使う言葉になってしまっています。実はそうではなく、「説明責任」は一人一人が責任を負うべきものだと考えています。
もしかすると日本にはこの文化の浸透がまだ十分足りていないのではないでしょうか。失敗した人を「責める」ときにだけ「説明責任」という言葉の武器を振りかざすのではなく、日常に浸透した一人一人の「責任」として自分事化していくことができれば良いなと感じます。
「説明責任」を文化と言えるまで浸透させることができれば、結果的に一人一人がより尊重し合い、気持ちよく生活できるようになるのではないか、と希望も込めて投稿いたします。会社運営を委任されている取締役が、社員を大切なステークホルダーとして丁寧な説明を果たす。
経営者のステークホルダーへの意識と、社員一人ひとりの意識が合わさっていくことが、力を引き出すことに繋がると信じており、村上さんの記事にとても共感。「以心伝心」「一を聞いて十を知る」を美徳とする日本の文化的背景は、「正確にコミュニケートする」「きちんと説明する」ことの重要性を認識することにとってはマイナスに働いてしまっているように感じます。
「田中君、来週の会議資料のためのデータ、早く取っておいて」では、期待とは程遠いデータが出るのは当然です。そんな指示をした上司の責任ですし、それで引き受ける田中君にも責任があります。
私も渡米後直ぐは、「それくらい、当然わかるだろう」という思いで、アメリカ人に、日本式コミュニケーションを(英語で)取っていました。ミスコミュケーションが起こった際にも、「一を聞いて十を知る」感で、相手に責任があるという、いわば怠慢かつ傲慢な感覚を持っていたように感じます。
その経験からも、日本で「説明責任」の文化が根付くのは難しいだろうなと思います。
文化的な多様性が上がり、上司が中国人で英語で話すとか、ということが日常茶飯事になれば、筆者が言われる
「実はそこに所属する一人一人が日常的に責任ある説明を行い続けることが必要なのです。上司は部下に説明をする責任がありますし、部下も上司に正しい現場や顧客の情報を説明する責任があります。こういう当たり前のことを日常的にできるかどうかが、最終的に大きな組織が「説明責任」を全うできるかの大きな結果に関わってくるのです。」
という当たり前のことが当たり前にできるようになる様な気がします。