聴こえない親を持つ子どもが「経験」を伝える意味。CODAの韓国人作家と語り合ったこと
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注目のコメント
「障害者の親に問題があるのではなく、それを恥ずかしいと思わせる社会にこそ問題がある。」
本当にそのとおりだと思います。
多くの障がい者の方と関わっていると、障がい者となっていることに後ろめたさを感じている人もいます。
誰もが好んで障がい者となっているわけではないのです。
私の周りにもご両親どちらも聴覚や視覚に障がいがある方がいます。お子さんが産まれた話しを聞くとお子さんは大丈夫だったのだろうかと余計な心配をしてしまいますが、親が子どもを産む選択をするということは、このようなことがあることも全て分かった上での選択であり、決して恥じることではなく、それを親が自分の子どもに対してどう教育していくかなんだと思います。とはいえ、そのお子さんの苦悩は計り知れないことであり、差別、偏見もそうですが、障がい者だけではなく、ご家族も支援するような社会に変わって行かなければならないと感じます。CODA(Children of Deaf Adults)という言葉を、この記事で初めて知りました。
自分が何者なのかを認識し、孤独な存在ではないと安心し、同じ境遇の人とつながり希望を持つ。ラベルがあることで、広がる世界があります。
同時に、CODAと一括りにすることで、様々な個性や環境や経験があること、ひとりの人の中にも多様な要素や感情や未来があることが、見えなくなりがちです。
根底は、LGBTQにも通じるものなのだと感じました。
自分が生きられるのは自分の人生しかないけど、できるだけ多くの人に触れて、対話して、その人の人生や多様性を擬似体験してみる。自分ごととして、その人の痛みや喜びを受け止める。
それらの体験の蓄積や交差で、人生はより豊かになるのかもしれません。んー、、たとえば躁鬱なんですとか、片耳聾唖なんですとか、とにかくたくさん打ち明けられることがあるんだけど、わたしは相手のレベルが平均以上と感じる場合は「個性だよ」と割り切って言ってしまいます。
何もかも配慮はできないし、されない。
能力そのものは先天的であれ後天的であれ、病的であれ健康的であれ、異常に人間には「個体差」があります。
「打ち明けるまで、よくわかんなかったよ」ってレベルの「リスク」は「個性」で割り切らないと、何から何までみんなほんとに病気なんですで片付けようとしますし、同情ありきの社会を追いかけ続けて何だか逃げられ続けてしまいます。
人は利害が一致しないとどんな理由があっても関係の存続性は担保されません。優しい人はたくさんいるので、リスクがある人を守る人は思うよりたくさんいます。
でも、優しい人より多いのが「自分が嫌いな人」です。あまりにも多すぎて優しさで救いきれない最大の病は自分の人生に対するネガティブな差を絶対化した〝自己嫌悪〟です。
まず自己嫌悪を克服してからじゃないと、リスクとも向き合えない。あなたはあなたでいい。みんな個性なんだ。あらゆるパターン。人の数だけあるパターンにほとんどの人が絶望している。では、絶望って一体何なのだろう?
あなたのことではないよね。絶望って、色々あるけど、あなたのことではないことの方が多いんだよ。みんな優しいから大丈夫。個性は個性。君は君にできることをやる。
ほら、なんなら普通より、よっぽど、優秀じゃないか。そんな風に人から決められる必要すらもうない。君は君でサイコーさ。
そう思えない自己嫌悪が、本当の病気。