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私は、残酷な世界と言うのは、昔から変わっていない
と思う。

いつの時代の本を読んでも、社会の不平等や
悲惨さを述べており、四騎士が現れて
戦争や、革命が起こっても、同じ事を繰り返している。

しかし、200年前に比べ、人間の平均寿命は著しく
長くなり、何よりその数はとんでも無く増えている。

これは、生活が向上しているのである。
昔なら生きていけない人が、生きて行けていける。

即ち、ロングテールのスケールフリーネットワークが、
右側即ち豊かな方にシフトしているのである。

そしてそれは、良い事であり、世の中は良くなっている
と私は考えている。

何故そんな事が起こるかは、テクノロジーの進化が
一番の理由だと思う。

それに対して、各個人の人としての心の進化は、
明確に認められない。

我々は今素晴らしくも、恐ろしいテクノロジーを手に
しているが、その心が幼稚であれば、人類の歴史は
そこで終わる事になるであろう。

周りの人を大切に、真面目に、義務を果し
人から奪うよりも、与える事を考えるべきである。
日本はかつて「一億総中流」と名付けられるほど、相当に平等な社会を実現しました。
ただしこの平等は、「世帯に対する」所得の平等だったと思います。

「世帯の」平等の前提にあったのは、男性が正社員として働き、女性が専業主婦として支えるという昭和型世帯。
今では少子高齢化、核家族化、長期の経済低迷による非正規雇用の増加などが進んで、これらの前提がもはや崩壊しています。

その結果、再分配政策が十分機能してない日本では、低所得者層がより貧困になる形で、格差が進んでいると言われています。

やや極端かもしれませんが、日本の平等政策がハナから個人の平等や、再分配による平等を構想していないとすれば、
個人を単位とする平等政策への転換によって、改善可能な余地は大きいと思います。

もちろん、そのためには不平等で苦しむ人々が声を上げていかねばなりません。

「日本のような「先進国の中の下」の国でなにをやってもたいした変化は起こせない」(記事より引用)かもしれませんが、
日本を良くするためにできることは、まだまだあるのではないでしょうか。
導入部の格差社会が起きる背景と要因の整理は、皆が知っておくべき「事実」として深く賛同して読んだのですが、最後のまとめがこの状況を受け入れて個人個人ができることを(長期積み立てとかマイクロ法人設立)しましょうとなっている点は個人的には残念に感じました。

ここで述べられている通り、圧倒的な勝ち組に対する妬みが問題ではなく、取り残された人が発生することが問題です。本当に取り残された人を生み出さないことに解はないのでしょうか。

大きくアプローチは2つあると思いますが、本当に無理なのでしょうか。

1)取り残された人の不公平感を解消するような仕組みを導入する
2)世界全体の生活水準や幸福度の底上げを行う

どちらもそれをやることの意義、取り残された人の不公平感と言う負の遺産を溜めすぎないことを、皆が強く認識することが始まりなのではないでしょうか。その意味で、本稿の冒頭部分は深く賛同する一方で、最後諦めに似た締め括りで終わっていることに残念さを感じた次第です。
アルファ、非モテ、無理ゲー、コスパ等の多くの現代語と様々な視点からの強い論理構成が混ざりすごく惹き込まれる文章です。

筆者の仰る下記のシナリオは悲観的ではなく現実的なのだと思います。社会構造の機能不全、それを解決するリーダーシップやイノベーションは現実問題非常に難しいと素直に感じます。

---本文より引用---
「格差を是正する四騎士」が現われることはなく、グローバル資本主義の拡大やテクノロジーの発展によって、経済格差は不可逆的に拡大していくことになります。
私はこれが、もっともあり得るシナリオだと考えています。
------

20年前にアメリカ西海岸に初めて行った時のリベラルに溢れた心地よい風を思い出しました(その当時もある地域は非常に治安が悪く怖かったですが)。同時に本能的にリベラルの厳しさや個人として問題を解決していく必要性も強く感じ、投資や会計の勉強をし始めたのも思い出しました。あんな風を味わうことはもうできないのかなぁ…

私は日本でも有数のかなり治安の良くないエリアで育ったのですが笑、そこで教師をしていた母親に下記のようなことを何度も教えられました。

「全て良い人も全て悪い人もいない。みんな良いところも悪いところもあるし良い悪いじゃない特徴もたくさんあるの。だから見た目や印象で判断したらダメ。良いところを見つけなさい」

様々な格差や対立もそうですが人としてのあり方が問われているような気がします。
「人並みに」成功するための難易度が、とにかく上がっているーー。そう感じることはないでしょうか?それもそのはず、テクノロジーの発達によって機会でもできる単純な仕事は消滅し、人間には高度な仕事ばかりが求められるようになりました。しかし話はそれだけではありません。人類が長い間希求してきた「リベラルな社会」が、いまのような構造を生み出したと橘玲氏は語ります。その真意とは。一読の価値ある論考です。
橘玲さんの主張はずっとかわりませんね。中流の崩壊、格差の拡大、社会の不安定化。それには、個人で資本をストックして備えるしかない。さまざまな著書で、「中の上」で踏みとどまるための戦略を説いてくださっていると理解しています。

中見出しの、<「リベラルな社会」が競争を生んだ>に引っかかっている方が多いようですが、これはギデンズの「再帰的近代化」やバウマンの「リキッド・モダニティ(流体的近代)」を想起したほうがいいのだと思います。ごくシンプルに言えば、「われわれはさまざまな自由を手に入れたが、それに悩まされてもいる」という話です。バウマンの『リキッド・モダニティ』にはこんなフレーズがあります。

「流体的近代では個人の不安、苦悩はすべて個人のレヴェルで解決されなければならない。雇用の不安、安全への不安、アイデンティティへの不安は、たとえば、消費による神経の一時的麻痺によって解決されるだけである」

不安を消費で誤魔化すというのは鋭いと思います。個人の戦略としては資本の蓄積しかないわけですが、それが消費にすり替わってしまう人が多い気がします。超高級車を乗り回していれば、なんとなく不安から逃れられることもありますが、それは一時的なものです。注意が必要だなと思います。
「私が自由に生きる」ということは、「あなたにも自由に生きる権利がある」ということです。これがリベラリズムの根拠で、階級や身分制、差別が激しく嫌われるようになります。
しかしその一方で、誰もが「自分らしく」生きようとすれば、さまざまな場面で利害の対立が避けられません。

この部分が、とても印象的でした。現在のミャンマーや香港を見ていても、「自由」を獲得することも困難さを痛感しますが、一方でそれを得ても様々なコンフリクトが生じることがわかります。
コロナによってあらゆる職種の人々がデジタルシフトを迫られているが、その結果、これまで各々の商圏の中で商売をやってきていた地域密着の職種においても、ロングテール化による格差が拡がっている。デジタル化はロケーションの制約を取り払ってしまうからだ。

人々は、近所の飲食店に足を運ぶ代わりに有名店のECやデリバリーサービスを使い、最寄りのジムや習い事教室に通う代わりに全国的に著名な講師のオンラインレッスンを受け、通りすがりのライブハウスや地域イベントで地元アーティストの演奏やダンスを鑑賞する代わりにYoutubeで人気アーティストのパフォーマンスに興じている。
Winner takes allとまではいかなくても、オンラインの大海の中で、知名度が低いスモールビジネスプレーヤーが集客するのは至難の業だ。

もちろん対面やリアルの価値が失われることはないので、今は仕方なくオンライン消費が進んでいても、コロナが収まれば地元の商圏に一定程度の客足は戻るだろうが、デジタル化によって一度取り払われた商圏の壁が再び築かれることはない。
なかなか厳しい現実だが、だからこそ、デジタル対応を進めつつ、その地域ならではのニーズをとらまえた価値提供を工夫していく必要があるのかもしれない。
自分にはどうしようもない「不公平」を感じる人が情報化によって一定数を超えて、また共産主義の記憶が遠のいているなかで自由・資本主義のデメリットを感じる人が増えている、ちおうことだと思っている。
格差は広がっている。ただこれまでは、昨日の記事でもあったように、90年代くらいまでは市民権プレミアム・ペナルティという国単位だったと思う。それが、グローバル化に伴う分業がさらに進んだこと、情報化に伴う特定産業の集積・進化によって格差が広がり、そしてSNSなどで見える化した。
これまでもグローバルでも国内でも格差があったが、格差やそれによる不公平・不幸せは、自分が関わりがある周囲との比較で人は強く感じる。SNSのエコーチャンバー現象とも併せた話だが、それで見える化され、さらに自己増強している側面もある。
ただ、歴史的に多くの革命が不満や不合理が情報伝播で認識され、それを変える思想・指導者に基づくものだったと思う。もちろん、政治の場でもそういう戦いが行われているので、均衡を打ち崩すまでの革命にはいかないようには思う。ただこういう構造の中で、変化への欲求がジワジワあがってきているのはここ10年の動きとして間違いがないものだと思っている。
機会均等、結果不平等というのが自由社会の本質です。「公平」と「平等」のちがいをあまり理解していない、という指摘はそのとおりです。

結果不平等であっても、機会均等なら努力次第で道は開ける。社会に対する不満を述べるのではなく、個人個人が幸せに生きることを優先すべきという点も、同意です。