ワクチンと『蜘蛛の糸』─お釈迦さまも嘆く「自分の国さえ助かればいい」浅ましさ | NHK「国際報道2021」の現場から
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注目のコメント
蜘蛛の糸にたかる人の性の浅ましさを嘆くのはもっともですが、本当は先進国でありながら自国で糸を作ることさえままならず、他国の糸に縋るしかないにも関わらず、それさえも遅れがちな現状を嘆くべきでしょう。
それでももし次に同じようなパンデミックが起こった時に備え、準備に力を入れることができるなら、嘆きは次の希望に変わるかもしれません。それは、人間の「浅ましさ」ではなく、人間そのものの姿。別に異常なことではない。むしろ、不謹慎ではあるが、もし虚構ならこういう話を僕は作りたいけど。
21××年、人類が滅亡の危機に瀕する感染症が蔓延。そこに救世主的なワクチンが開発される。しかし、その薬はどうしても全人口の3割20憶人分しか作れない。生き残りたい3分の1を目指して、人が人を押しのけ合う地獄が始まる。ワクチン争奪戦の勝利したのは、金や権力やコネを持つ上級国民たちだけだった。しかし、ワクチン接種した人間が1年後バタバタと謎の死を遂げていく。結果、生き残ったのはワクチン接種できなかった者だけだった。ワクチン開発者の狙いは最初からそれだったのだ。
…みたいな。読みたい人多ければ書こうかな。蜘蛛の糸を引用するには文脈が浅い気が、、、?
カンダタは哀れみによる善行の意義を自己優先で否定しために、因果によって糸を切ってしまった。
蜘蛛の糸を切らせたのは人間の浅ましさではなく、「儚さ」。
弱いがゆえに、助け合いもすれば奪い合いもする。
一人だけでは生きていけないのに、一人だけでも生のびようとする業の儚さ。
日本はカンダタではなく、カンダタの下で糸を引っ張り追随するに過ぎず、蜘蛛の糸を語るに語れないのが悲しいところ。
コロナは世界規模で収束することが目標であることは間違いない。それが新しい日につながる。
一方で、これを世界食糧危機になぞられた場合、自国や家族を優先せず、あるいはすべてを家族としてわけあって、自己犠牲的に世界と関係を保つことができるのだろうか、私には自信がありません。
自己を優先した場合も破滅、他者を優先した場合も破滅だとしたら身も蓋もない。それでも他人の死を嘆き、自分の命を捧げられるのだろうか、、、。
満場一致の答えのない、あっても強要のできない問題です。