明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に
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新しい史実が現れたというより、もともと事実と言えるほどの根拠がなく解釈していたということですね。科学(社会科学含め)に携わる研究者は知り得た限られた事実をもとに考察し、事実と解釈は切り分けられますが、一般の人間は事実自体が解釈やストーリーに合わせて拡張していきますね。ただ歴史や考古学は自然科学に比べ「ロマン」という言葉でストーリーを重んじる人が多い印象です。素直な気持ちで史料を読み断片を繋げる論理的で確からしいストーリーを発見する喜びはきっと至福の時なのでしょうね。
信長が怖くて本能寺に行けなかったんでしょう。
≪光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂所教授(日本中世史)は「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。≫そりゃ、『主人殺しの謀反』ですからね。
自ら手を下すのは、さすがにやりにくかったでしょうし、一万三千もの軍勢を率いる大将が、自ら先陣を切るなんてこともありえない話ですよね、
まぁドラマ的には、本能寺に明智光秀がいた方が絵になるので、そういうシナリオになるということなんでしょう。
それよりも、なぜ光秀は謀反をしたのかという理由なんですよね。
さまざまな説がありますが、散々信長にこき使われ、いい年になっているのに、苦労して平定した丹波の領地が召し上げられ、更に働けと尻を叩かれ、精神的に追い詰められてパニック的に謀反に動いたという説が正しいようです。
なんせ、文書によると、部下の誰とも相談せず決め、主要な家臣に午後六時ごろ、明日、本能寺を討つと話したとあります。
その際、それはあまりに無謀ではないかと一部の家臣が反対したそうです。
しかし、この場で謀反を打ち明けた以上、必ず話が外に漏れ、信長公に知れることになるのは必定だと、斎藤利三が決行することを強く押したとあります。
こんな場当たり的なやり方では、長続きはしませんし、よく考えたとは言えません。
それが証拠に、謀反後、光秀はあちこちに手を回し金をばらまいて、味方するように誘いましたが、僅かな味方しか得れてません。
それと最近の新説では、秀吉は謀反があることをあらかじめ予想し、大返しを準備していたという説が出てきています。
毛利軍と対峙していた備中高松から大山崎までの230kmの行軍の手際の良さが、準備なしでは、あの短時間で行うことは、計算できないという考えです。
特に最初の2日で、90km行軍し姫路にたどり着いていることは驚異的と言えます。
それとそれだけの強行軍を行なったので、秀吉軍はヘトヘトで、天王山で戦った主力は、摂津衆と呼ばれる高山右近・中川清秀・池田恒興の9500と大阪にいた織田信孝と丹波長秀の7000の軍勢であると言われています。
だから、中国大返しは軍事的には意味がなく、関西にいた織田勢を味方に引き入れ、自分を主役にするための手段であったということなのです。