【橋爪大三郎】現代人が「よく生きる」ための宗教講義
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幼い頃から今に至るまで、「死ぬってどういうことなんだろう?」という疑問を一度も感じたことがない人はあまりいないのではないでしょうか。
誰しもが体験するにもかかわらず、誰も答えを知っている人がいない「死」について、社会学者の橋爪大三郎先生に話を伺いました。
先生が、宗教という切り口から「死」について考察したのはなぜなのか。そもそも宗教とはどんな役割を果たしてきたのか。日本では宗教があまり浸透していない理由とは。
「死を考えることにより、自分が生きていることの意味がわかり、周りの人との関係が取りやすくなる。自分のわがままが少し正される。」という先生のお言葉には大変感銘を受けました。
記事には記していませんが、取材前に「社会というのは病院の待合室のようなもの。順番に一人ずつ到着して、順番に一人ずつ出て行く。結局みんな出て行くから、じゃあそこには何もないかというと、何かがある。
では、何があるのか。それは、先に来た人から後に来た人にいろんなものが伝わっているということ。つまり、自分のふるまいなどはすべて貰い物なんです。
貰い物だけど、使っている間は自分のもの。そして、自分もそれを人に伝える。この構造が社会というものだと思っています」と教えてくださり、とても胸打たれました。
社会学から宗教学、歴史など、多岐にわたる分野での深い知見をお持ちの橋爪先生。先生のお話は私にとって、取材後には「先生の門下生になりたい……」と願ったほどの感動体験でした。
そんな橋爪先生による宗教講義を、本日から3日間お届けします。みなさんにもお楽しみいただけたら幸いです!宗教については、本当に「死ぬまで」に一度しっかり勉強したいと思いました。
ただ、だからダメなのかもしれないのですが、どうしても宗教の集金力のものすごさに押されて別のことを考えてしまいます。教会などの建物はもちろん、バチカンは確か前法王の時にマッキンゼーを入れて資金の見えるかをしたはずなのにいまだにもめていると聞いていますし。私はトルコ出身です。トルコの人口の9割がイスラム教です。生まれてからすぐ発行される身分証明証の宗教欄に「イスラム教」と書かれます。そもそも宗教は身分証明証に書かれるほど重要なことです。毎日、なんだかんだ少なくても一回ぐらいは宗教について聞いていたり、話していたりします。それは話したいから話しているわけではなくて、日常生活ではそこそこ大きい存在があるからです。
ですが、20年トルコで生きてきた私が違和感を感じてきたことが山ほどあり、宗教のことをnonsenseとタグ付けしました。理由は無限にありますが、ピンポイントでいくつか例えると、
・宗教は自分と神の間のものであり、その関係の深さや実践の度合いが他の人が関係ないのに、なぜか他人の実践度合いに口を出す人が多い
・実践しない人が悪い目で見られる。例えば、中学校や大学試験に準備する高校のとき(要はエネルギーも栄養もたくさん必要な時!)に断食しなくてランチ食べてたり、水飲んでたりとかするとソーシャルプレッシャーを感じる(批判的な言葉を聞いてたり、悪い目で見られてたり、、)
・「宗教はより良い人である」ためにありますよね?新聞を開くと、必ず毎日、イスラム教の全てのルールに従い1日5回もお祈りしている人が宗教が原因で人を殺した(特に多いのは自分の家族!)というニュースが必ず目にかかります。人を殺さなくてもここでは言えないぐらい汚いことばかりしている人がまたその「宗教に厳しい」グループのメンバーです。
などなど、、たくさんあります。
そもそも宗教は何ですか?どこから出てきましたか?非常に簡単です。昔の法律でした。社会を整理し、みんなが平和で平等で生きるための現在の「法律」がなかった時のルールブックでした。最初はそのために作られてきたのに、ゆくゆく社会を整理するのではなく支配するツール、ファイナンシャルパワーになってきました。本当のスピリチュアルな面がなくなり、たんなるマネーゲーム、パワーゲームになり、戦争を起こしてたり、被害を与えるものになりました。
人間は「よく生きるために」宗教が要りません。誠実で、生き物や地球に優しい人間であり、幸せでピースフルな人生を歩むために必要なことは1つだけ!良いマインド。結局、自分です。よく生きるか生きないかは宗教で決まりません。自分の中で決まります。