【松村圭一郎】「違和感」をヒントに。社会やビジネスを「自分ごと化」する方法とは
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セイコーのスケールチェンジャー、今回は『うしろめたさの人類学』(名著!)などの著者でもある文化人類学者・松村圭一郎さんにインタビューしました。
自戒を込めてなんですが、難しい言葉や大きな概念にとらわれすぎてしまうと、思考のピントがズレてしまったり、目の前の現実と世界のつながりが希薄になったりします。行き過ぎると、「なんでこうなった? 」みたいな誰にもよくわからない方向に社会や組織が進んでしまったりもする。
松村さんの「実感」や等身大の「手触り」から考え始めるというお話、 なにかを考えたり学んだりするうえで、人類共通のエッセンスだと思いました。ちゃんと自分の感触と大きな概念がつながった時に、世界がひらけて見えるんでしょうね。内容もさることながら、時計と上着のコンビネーション、それを活かす写真が実にセンスよくすばらしいなと見惚れながら読み進めていくと、セイコーがスポンサーだということがわかってくる。なるほどそれで。面白くてためになり、ビジュアルも美しいので過去にさかのぼって連載を全部読むことになりました。
企業がスポンサーになるビジネス記事の理想の形の一つですね。語る人の認知度も上がるし、セイコーの格もいやみなく高まる。平易ながら、とても勉強になる記事でした。
かつて文化人類学者の山口昌男さんは、「「すぐれた人類学」とは、己れの価値で他者を量るのではなく、他者を媒介として己れを量りなおすところにあるはずです」と述べました。
松村さんがここで語られることは、まさに、そうした他者という存在を通した対話の過程としての人類学であると同時に、では、いかにして私たちが「他者」に出会うことができるのか、ということについてではないかと思いました。
私たちは日々、実は結構な数の人と接しています。コロナ禍ではそれが制約されましたが、それでも、スーパーなどに買い物に行けば、少なからぬ人と接していたのもまた事実です。
でも、それら全ての人を私たちは覚えていないし、また、極端に言えば、どうでもいい存在として私たちを通過していきます。
それはなぜかと言えば、自動的にそれらの人々をそういう存在として解釈しているからではないでしょうか。
松村さんがここで語ることは、そうした私たちの当たり前の解釈・日常を異化すること、その実践としての人類学という方法についてであり、その実践を通じて、新たな発見に目が開かれたり、地に足をつけて生活者である自分から変革へと踏み出す道筋を見いだせる、ということであると思います。
自分はもしかすると日本企業を人類学的な観点で観察しながら経営について考えているのかなと思ったりしました。同時に、対話することは人類学的に生きることなのだということも改めて感じた次第です。