孫の頼みで綴った「おじいちゃんの戦争体験記」 爆弾で飛び散った手足、仲間を荼毘に付した記憶 「ここまで詳細とは」孫も驚く
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義父は、終戦まで陸軍経理学校生徒だった。学校の日課作業として、細かい日記を手帳につけていた。当然、上官の検閲を受けるので、慎重な言い回しの一方、軍国青年の定型文言がつらなる箇所も多い。
この手帳のコピーを、(無断で)取った。一気に読まされた。
日々の生活が実名で綴られ、行間からは当時の思いが読み取れる内容だった。
いつか資料論文に纏めるか、小説の形で公表できれば良いなと思っている。
父方は、長男は小さいころに夭逝し、終戦当時、次男が陸軍衛生下士官で戦死、三男が近衛連隊下士官で戦死、四男が航空士官で戦死、五男の父は海軍航空整備兵で復員、六男が満州軍幹学校生徒でシベリア抑留後復員した。
戦死した3人は、戦死場所は分からず、遺骨は戻らず、空の白木の箱(小石や紙が入っていた)で戻ってきた。
重爆機の機長の四男が前年のサイパン島攻撃の功績で部隊感状を受けていたので、かろうじて、戦死当日の飛行予定がわかっている。しかし、九州南方洋上としか伝えららなかったそうだ。
父に、ふくらはぎにある貫通銃創の跡をみせられたことがある。複雑な表情が忘れられない。
6人の息子のうち、3人を戦争で無くした祖父母の辛さを思うと息が苦しくなる。