長崎原爆の日 祈念式典で市長「核兵器の脅威 世界共通の課題」
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今日8月9日は、長崎に原爆が投下された日。原爆によって、1945年12月末までに、広島では約14万人、長崎では約7万4千人の方が亡くなりました(広島市、長崎市調べ)。
それはほんの75年前の夏の出来事です。
わたくしは、厚生労働省在職時、援護局で戦没者・戦傷病者と遺族の援護に、健康局で原爆被爆者の援護に携わりました。
遺骨収集の事業で、米軍人が戦争当時、米国に持ち帰ってしまった日本人のご遺骨を、白木の箱に入れ、ご一緒に祖国にお帰りいただきました。今は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお眠りいただいています。
家族を想いながら異国に散った戦没者の方の手記を読み、すさまじい戦禍や被爆の状況と戦没者・戦傷病者・被爆者の壮絶な苦しみを、残された記録や関係者のお話で目の当たりにし、そして、深い悲しみと戦後の苦難を乗り越えてこられたご遺族のお話をうかがいました。毎日、いろいろなことを思い、考えながら、仕事に臨んでいました。
我々が生きる今の「平和で豊かな日本」が、どれほど有難いものであるのか。どれだけの犠牲や悲しみや苦しみの上に成り立っているものなのか。わたくしごときが、とても、説明することなどできません。
今年はお盆の帰省を遠慮されている方も多いと思います。ほんの70数年前、日本で世界で何が起こっていたのか、次の世代も一緒に、関連する番組や書籍にふれる機会を広げていただければ、それは、祖国の平和と安寧の実現を、強く願いつつ無念の死を遂げられた数多の方々の思いを、受け継いでいくことになるのかもしれません。長崎は人類史上最後の核兵器使用の地として、未来にわたって最後の地であり続けるために発信する責務を負っています。長崎、広島の両市長ともに、コロナ禍の今の世界と75年前の世界を対比させながら、核廃絶への人類の連帯を訴えました。いつもの10分の1に絞らざるを得なかった参加者たちの光景は、被爆者の高齢化への至急の対処とオンラインなどを活用した新たな反核運動の方法の開発を促していると思います。コロナ禍は、時代をを一挙に進めます。時代に取り残されない運動を私たち一人一人が担わなければならないと思います。
当然ながら、長崎にも原爆資料館があります。
入り口をくぐり、大きなカーブを描く螺旋状のスロープを降りながら時を遡ると、視界に飛び込んできたのは爆風で吹き飛ばされた巨大な鉄柱。
開いた口が塞がらないまま首を左に振ると、黒焦げのレンガの壁が。
それは、衝撃でその構えのほとんどを失った、学校だったものの果ての姿でした。
長崎の資料館では、こうした原爆の生々しい爪痕をその目で体験できます。
そのインパクトの強さは、個人的には広島の平和記念資料館よりも大きかったかもしれません。
原爆といえば、「ヒロシマ」とまず連想する方が多いでしょう。
ですが、長崎にもぜひ足を運んでみてください。
継承すべき記憶と学びが、そこにはあります。
*他記事へのコメントの転載です。