ハイエクの自由主義をAI×ビッグデータ時代に読み解く
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ハイエクが言いたかったのは、人間の社会も自然の営みの一つであるということではないでしょうか。思い上がってはいけない。環境変化にあわせて、素早く適応していくべきだと。あらかじめ設計できるものではないと。環境適応すべきだと。
そういう意味では、自然主義の提唱者かもしれません。自由放任主義ではまったくないのです。国家として企業として適応すべき体質を構築しなければならないと、今痛切に感じます。吉野先生にお話を伺って認識が一番ひっくり返ったのは、対立軸が違うということです。ハイエクが論じたのは「資本主義か、社会主義か」でも「大きな政府か、小さな政府か」でもなく、「賢い人間が設計する社会か、試行錯誤する自由か」。新自由主義が席巻したと言われる今も、「賢い設計主義者」は形を変えて存在していることに気づかされます。
ハイエクは、「誤解されても、大きな目標の前で確信犯的に目をつぶったのだろう」と吉野先生は見ています。ケインズの回でも、中村先生が「主著では経済学者たちがアレルギーを起こさないように、最も大事な要素のほかは、 わざと自身の考えを封印している」と仰ったのが印象的でした。世の中を大きく変える経済思想家の真髄をみた思いです。
でも、現実は2人の思惑や信念を超えて大きく両極に振れました。あくまでも正しく理解されることを目指した方がよかったのではないか…と思ったりもします。
「誤解だらけの経済学古典」シリーズは今回でひとまず幕を閉じます。
私自身が解説を伺うなかで得た気づきをシェアさせていただきました。
ありがとうございました。>>実は、ケインズとハイエクの経済思想はそれほど大きく対立するものではないのです。ケインズとハイエクは論争しましたが、個人的な関係は良好でした。
ケインズはハイエクに宛てた手紙で、「(市場と政府の役割に関して)どこかで境界線を引かなくてはならないことは君もわかっているはずだ。だが、君と私ではおそらく別の場所に境界線を引くだろう」と書いています。
私は経済学の巨人ケインズを学ぶと同様の価値がハイエクにはあると思っています
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