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「もう無理、死にたい」ALS患者嘱託殺人事件に医師が思うこと

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  • 北海道大学

    「医療社会学では、死の医療化という議論がある。
    これは、近代社会では、死という人間のライフサイクルでの自然現象が医療の管轄範囲になっていることを批判的に指摘する言葉だ。
    近代人である私たちは、なんらかの病気による死や殺人や事故死を認定する医師の死亡診断書無しに、ただ死ぬことは許されない(ちょっと窮屈な)社会に生きている」(p.4)

    医療行為とは社会的厚生を実現するための手段であったはずだ。一体いつから、我々は医療そのものを目的として求めるようになってしまったのだろうか。手段は往々にして目的に転化しうるものである。しかしそれは時として、全体性をもって語られる危険をもはらんでいることに留意しなければならない。厚生主義の問題点は、もとの厚生が抑圧的支配によって変化させられたものである場合、その抑圧的支配を正当化してことにある。厚生は客観的な状況や制度によって簡単に変化させられてしまうのだ。

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    「いまこの時に、医師介助自殺としての安楽死を中立的に議論しようとすることは、それ自体が病者・障害者への暴力であり得る。
    健康な人の場合は自殺防止のための啓発や努力が重要としながら、病者・障害者の場合は「死ぬ権利」の問題として考えるとすれば、差別的な二重基準ではないか」(p.5)

    功利主義の中に、厚生とは選好充足であるとする立場がある。彼らが「死ぬ権利」を主張するとき、「死ぬ」という選択肢が存在する状況下でまさに個人の判断に委ねるべきと言うだろう。しかし、本当にそれで良いのだろうか。死ぬ人は経験するとしても、その周囲の人間は自ら経験しない事態であるその人の「死」について常に外的選好が伴うことに注意したい。すなわち、選好功利主義はある種の偏見を反映した判断を正当化してしまうのである。ある人が死なんと欲するとき、近親者はそれを望まないかもしれないが、世論はその選択を助長するかもしれない。選好とは、自由意志とは、いわばブラックボックス化した概念装置なのである。

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    もはや死に近い者のみが「死」を語る世の中ではない。「生」と「死」は表裏一体のものとして考えたほうが良いだろう。「死」を考えることは、とりもなおさず「生」を考えることである。「メメント・モリ(羅:memento mori)」とはそういうことだ。


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