【レジャーの始まり】場所への思いが移動を「旅行」に変えた
コメント
注目のコメント
#7は、本書第Ⅲ部「動き続ける社会とシステム」の第11章「人に会う」と第12章「場所」から抜粋されてます。そういった意味でアーリの主張を理解するためには、第Ⅲ部のタイトルを把握しないとミスリードにつながるかもしれません。
この「動き続ける社会とシステム」は、空間経済学を社会学的移動と「ネットワーク」の側面から捉え直そうとする試みと言えそうです。第9章ではブルデューの資本形態で抜けている「ネットワーク資本」なる考えを導入し、10章ではダンカン・ワッツのスケール・フリーが、実はネットワークの維持にはコストが掛かることを指摘して議論を組み立てています。
つまり、人的なネットワークを維持するための理由(情動)とコスト上の制約から発生する階級(格差)の面から、旅行を捉えているのが#7ということでしょう。
結局のところ、昔から旅行が出来る人々というのはお金又は時間に余裕のある人だったが、移動手段の発展や旅先の情報化によって、安く・早く旅行することが可能に。すると、以前は巡礼や通過儀礼等といった目的で旅行していた巡礼者やグランド・ツアラーだけでなく、人と人とのドラマトゥルギー的目的で気軽に旅に出ることが出来るようになり、目的の多様化、旅行の商品化が始まったということにつながった。
すると、外見的には同じパッケージツアーに参加していても、旅行者の目的の違いや深さから旅の意義や意味も変わってくるということで、実は旅行も内面的、かつ人間関係上普段は会えない人に会うといった精神的(神は不在のまま)な側面が強調されて来たという、アーリによる歴史的見立てが有ります。
まぁ、そんなことは体感的に理解している現代人には、他人との旅行比較分析でもやれば少なくとも自分の旅の目的が内面的、精神的、体験的に徐々になってきていることは理解出来ると思います。
といった史的旅行論を踏まえてGo to トラベルにどんな意味があるか?
p.s.安西ちまりさんが深夜特急に触れていたので、沢木耕太郎のコロナ後のインタビューを張り付けておきますね。
●「みんながこの状況を過度に恐れすぎている」――沢木耕太郎が「旅なき日々」に思うこと【#コロナとどう暮らす】
https://news.yahoo.co.jp/articles/415bac348e6a69316ecc903f17dc363ee6e40448シベリア鉄道に乗るのとつくばエクスプレスに乗るのとでは、長距離の移動は変わらないのにロマンが全然違いますよね(笑)
本文に「情動」とあったように、こうした生活者としての視点と「よそからの人」の情動の違いが移動と旅を違えているんだろうな、と感じました。
深夜特急で読んだ上海の薄汚い路地も、住んでいたら避けるけど無性に憧れてしまいます…"さらに、初期の海辺の保養地も、そもそもは治療の場所として生まれたものであった。シールズがブライトンについて記しているように、浜辺はもともと医療の場であった。18世紀から19世紀初頭までの間、浜辺は病弱な者が海に「浸からされる」場であり、海には人を健康にする特性があると考えられていた。"