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【19世紀パリの景色】都市は「消費できる人」の所有物となった

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    ランサーズ株式会社 取締役

    群れるだけの名もなき都市の「群衆」から、匿名でも闊歩し体験を反芻する「遊歩者」へ。街中のカフェなどを舞台にした「プライベート・イン・パブリック」の誕生。

    実はこの構造、インターネットの勃興からの動き、特にSNSが台頭した後のネットユーザーの行動心理に通底するものがあると思います。匿名でグローバルに発信して紛れることが心地よかった時代から、ある一定のプライベートさやクローズさを求めるようになっていた動き。twitter vs Facebookではないですが。さながらtwitterは街中の喧騒をどこまでも映し出していて、Facebookは都会に点在するカフェや自分なりに心地よく交流できるスペースをつくっているみたいな。

    19世紀の「光の都」パリの誕生から時間を経て、20世紀初頭に鋭くパリの都市像や人々の行動心理を観察し分析したボードレールの言説がたびたび引用されていて、建築や都市史を専攻していた学生時代を思い出してしまいました笑


  • バッテリー スペシャリスト

    19世紀のパリの大通りと舗装道から、そしてまだ登場しない自動車の無い都市での歩行者についての話。日本人にとって都市を消費するというのは、ヨーロッパの観光地で実感するものでは無いでしょうか。

    アーリは川田順造も引用しており、パリだけでなくウィーンも考察しているが、もし19世紀の日本を見たらどう思っただろうか。渡辺京二の「逝きし世の面影」には、大通りや舗装の要素が無い、格子戸と道がひとつながりになり、辻説法する坊主や道祖伸の混在、そして貧困さの欠片も無い町民が幸せに歩いている姿が、外国人の目から描かれている。

    大通りによって都市が見通せたからといって他人の心は不可知だし、舗装されたからといってそんなに急いでどこに行く必要があるのか。今、ここで生きる東洋人の姿が西洋人にとってはとても愛おしく、感嘆すべき社会として映ったということ。そして都市を消費するのでは無く、町を共有するような道と建物の関係。その違いは遊歩者なる者が居なかったであろう文化・文明の違いなのかもしれません。

    また都市を消費するのか、都市に住まうのかで、歩き方も変わってくることは違うでしょう。旅行となると分刻みでスケジュールを立てがちですが、それは消費のための移動(歩行)になり、現代は消費はマーケティングに結び付き、広告看板は無くとも誰かの思惑に操作されていることにも。そう考えると都市におけるホームレスの視点というものが、いかにユニークか。都市を移動だけで語るのは難しいですね。


  • Uzabase NewsPicks Premium 法人チーム

    8/31追記 夏休み、難しい本にもチャレンジ!ということで再掲「モビリティーズ」。
    エッセンスだけになってしまうのが惜しいですが、様々な角度から「モバイル(移動できること、可動なこと)」を考えるきっかけになりますように。
    ──────
    3年前にパリの凱旋門に登ったのですが、上から見た放射状の街並みは壮観でした。川沿いにカフェや美術館があり、通りにはつい消費したくなるお店が並び、思い出すだけで恋しい…。
    この「つい消費したくなる」という気持ちも、「どこに何があるか景色が遠くまで見える、どこにでも移動できる」というコントロール感から来るのかもと感じました。


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