深夜に96歳の男性が「ラーメン食べたい」と言ったら、どうしますか? 「ほどほど幸せに暮らす」を目指す事業者の挑戦
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22歳ながら指定難病の一つである潰瘍性大腸炎を発症してしまい、気軽にラーメンを食べられない身体になってしまいました。
しかし、それでも食べます。やっぱり美味しいし、食べているときは幸せだからです。
数時間後にはトイレで苦しむことになるだけでなく、この病気が進展すれば大腸がんを発症したり、大腸摘出になったりする可能性もあります。ただ、薬を使えば一定程度、病状はコントロールできます。
何より、「健康だけど我慢に満ちた人生」と「不健康だけど適度に欲求を満たせる人生」なら、後者こそ不健康ながら健全に思えるのです。もちろん、これは私の病状がさほど重篤ではないからできることでしょうし、医療従事者の皆さんは批判するかもしれません。でも、おそらく今後、数十年も生きるのにラーメンすら食べられないというのは、あまりにも辛いものでしょう。
そして、それは極めて失礼ながら、おそらくは今後の人生が私よりは長くないであろう高齢者の皆さんなら、尚更なのではないでしょうか。決して長kない余生を、健康のために「我慢に満ちた」ものにすることは、身体こそ「健康」で「安全」かもしれませんが、精神的もしくは心理的に「健全」とは思えません。介護している方々、家族、医療者、皆が利用者・患者さんの幸せを願っているのだと思います。
本人の思うまま、それができるようにしていきたい、とは皆が思っていると思います。
ただ本人にだって自分の最大の幸せがわからないこともありますし、周囲がどれだけその人の幸福を願っても、そこにズレがあることもあります。
自分の中で葛藤が全くないわけではないですよね?さっきすごく食べたかったスイーツを食べて、その次の瞬間ダイエットのことを考えて後悔することもありませんか?
各事例に正解も不正解もありません。
極論過ぎますが、もし夜中にラーメンを食べさせてノドを詰まらせて、本人の希望だからね、と言ってそのまま看取っている動画だったとしても、受け入れられるのでしょうか。。。
(個人的には非常にショッキングですし、もちろん倫理的に動画を表に出すべきではありませんが。全く負の感情を持たずに受け入れられるだけの器は少なくとも私にはありません。)
もし誰かが亡くなった時に、そこに全く負の感情が生じない方はいないのではないでしょうか。悲しみ、悔しさ、寂しさ、もちろん良い最後を迎えられたという気持ちもあるでしょうけれど。
決して「こうあるべき」と簡単に言えるものではないということだけは確かで、いずれにせよこういったことをキッカケに議論し、考えていけることはポジティブに感じます。
追記
なお、これを受け入れるには本人・家族・医療者・介護者・社会がそれを受け入れる必要があるように感じます。「大切なのは何を目指すかだと思っていて、僕らの目標の最上位は、『ほどほどに幸せな暮らし』です。『安全』を最上位にはしない。ほどほど幸せが実現できるなら、安全性は最低限確保しながらも多少下げてもいいと思っています」