【寄稿】テラスハウスの「光」と「闇」
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1人の命が失われてしまったのは大変痛ましいことですが、残念ながらこれからもあらゆる
誹謗中傷は無くならないと思います。
この記事では、怒りの矛先がパネリストに向いているようですが、パネリストが毒舌を言うという役割を演じている、という意味においては、出演者が番組内で真面目に全うしていることと何ら変わりはないと思います。
テレビ局に入社して驚いたことの1つに
「天然」キャラや「キレ」キャラや「嫌われ」キャラ
の芸能人の多くは
台本はなくとも、その場の空気を敏感に感じとり
演じている部分があるという事実でした。
その精度が高ければ高いほど業界では『プロ』と
賞賛されます。
そこには「バラエティなんだから」という共通の免罪符があり
視聴者にバッシングされても、本来の自分と切り離すことが出来るのでメンタルも保てている部分があるかもしれません。
人前に自分を晒すことにおいては、演じる余地が無いわけがないのに、テラスハウス出演者においては「台本は一切ございません」の合言葉により、その切り離しの道が封じられてしまった部分もあったのかもしれないと今は思います。
そのメンタルマネジメントは、番組側で積極的に
やっていくべきだったのかもしれません。
私も番組を観ていた者として重く受け止めています。
制度面では、誹謗中傷コメントの情報開示請求の簡素化、迅速化は、線引きの難しさの課題はあるかと思いますが、切に望みます。
一方で、SNS時代の教育では、法的手段とともに自己防衛手段も学んでいくべきだと思います。
報道番組を担当していた時に、
「SNSに書き込まないサイレントマジョリティがいることを忘れるな」と何度も言われました。
悪い意味で使うこともある言葉かもしれませんが、
私は、顕在化しない多数の声があり
SNSが全てではない、と考えられるようになり
バッシングされる度にこの言葉を思い出しています。
改めて、花さんにお悔やみ申し上げます。
注目のコメント
テラスハウスの人気の理由は窃視(のぞき)の快楽にあると考えます。台本のない「他人の私生活」を、他人から見られることのない「安全な」場所から、一方的に覗き見したい欲望を叶えてくれるのです。
この件では、サルトルの「存在と無」にある、「鍵穴をのぞき見している男」の話を連想しました。のぞきは、相手との関係を拒絶した形での他者との関係であり、のぞきの対象を所有しているような感覚を得ることができます。
サルトルの「鍵穴をのぞき見する男」は、後ろから不意に声をかけられて激しい羞恥心をかき立てられますが、リアリティ番組の視聴者は他人の眼差しを意識する必要の一切ない安全な場所におり、羞恥心を感じることなくSNS等を通じて出演者を批判し罵詈雑言を浴びせることで、覗きの対象への所有感・優越感という恍惚をさらに強く感じることができます。
一方、出演者は台本のない設定とはいえ、視聴者という他者の眼差しを常に意識しているため、意識的にも無意識的にも自ずと視聴者の期待に沿うような役柄を演じることになります。これはあくまで「演技」であって、決してありのままの本人の姿ではないはずです。
しかし、リアリティー番組の出演者ははこうした「演技」に対し本人の人格否定のような批判・誹謗中傷に繰り返し晒されることになります。しかも自分たちは一方的に「覗かれている」存在であり、「覗いて」罵詈雑言を浴びせている相手を見ることができません。
こうした歪な状況では、出演者の自尊心が深く傷つき、自死に赴くほど追い込まれたとしてもなんの不思議もありません。いずれにせよ、テラスハウスの闇は深いと感じます。リアリティーショーという番組の構造の中にSNSでの盛り上がり(炎上)が組み込まれている以上、番組制作者と放送局は、SNSでの誹謗中傷にも責任を持つべき。しかしSNSでの発言はコントロールできないのだから、こうした番組は作るべきではないと思います。そもそも番組冒頭で「台本はありません」といかにもリアルな出来事を撮っただけのように見せて、実は演出のもとに作っているのは、視聴者を騙しているのですから、番組の本質的なところで否定されるべきです。