【アート思考】不確実性の時代。情報より大事な「問う力」
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ビッグデータを積み重ねれば解決策が出るわけではない、というのは、カイゼンにカイゼンを繰り返せばベストな商品がつくれるというわけではない、ということに通じます。
そもそもベストな商品って何?という問いが無いままデータやカイゼンを重ねても、その商品が消費者にヒットするとは限りません。
『市民ケーン』という米国の名画があります。「新聞王」と呼ばれ、米国の権力の絶頂を極めたケーンですが、ただ「バラのつぼみ」という言葉を残して亡くなります。幼少時の思い出に関わるらしいと匂わされていますが、誰にも意味がわからないまま終わります。おそらく、ケーンにとっては、富よりも権力よりも愛人よりも、「バラのつぼみ」という言葉で表される何かが本当に価値があったと思われます。
ある商品が、全ての消費者に均一に価値があるなどというのは、人を人として理解することに欠けています。気難しい老人にとって、折りたためるスマートフォンよりも、レクサスよりも、幼少時に遊んだ独楽や、もう失われた風景の方が、はるかに価値がある、というのは、全然ありうる話です。価値は、誰も予想できないところにあります。
アポリネールというフランスの詩人が、「ヒトはウマよりも早く走ろうとして、自動車を発明した」と言っていますが、ウマの品種に改良に改良を重ねて早くは知らせるよりも、自動車を発明する方が、はるかに画期的なイノヴェーションです。アポリネールは、彼や仲間の詩人や画家たちがやっていたシュールレアリスムというのは、そういうふうに、人間の文化と社会を変えてしまうことだ、という趣旨でウマと自動車の例を出したのですが、そういう飛躍と変容を、アートは引き起こします。一個人の感想ですが、アートにしても教養にしても、「結果としてビジネスに役立つこともある」というのはよくわかるのですが、「ビジネスに役立つ」という即物的な文脈で消費されるような状況に、どうしても矛盾を感じてしまいます。
かつて「カリスマ美容師」が持て囃されたことがありますが、「カリスマ」という強烈な言葉が「美容師」と結び付けられることで恐ろしく陳腐化させたのと同様に、ビジネスの一側面にやや力技ではめ込んで、陳腐化させているような気がするのです。
それで何か困るということでもないですし、パトロンになり得る飛び抜けたお金持ちが限定的な日本では、最適な文化としての生存戦略なのだろうと理解はするのですが、それでも本来はもっと自己目的的なものなんじゃないかという違和感を覚え、なんともやりきれない気分になります。ブーム前からアート思考に携わってきた第一人者のインタビューです。
アートとは手先の器用さのようなセンスの世界、そう思っている人もいるんじゃないでしょうか。少なくとも私はその一人でした。
それが、記者として経験を積むにつれ、記事もアートの一種だと思うに至りました。もちろん、私自身に特段の文章のセンスがあるとは思っていません。
とはいえ、一つとして、常に想定外を目の当たりにし、「答え」というものが「ない」という思いに至ったこと。
もう一つが、情報がタダの時代、「絶対に人とは違うことを書く」を突き詰めようとすると、答えを探すのではなく、「そもそも」を問わなければならないこと。
その意味で、ジャーナリズムとアートと共通点があるかと思っています。
今回の取材で、野原教授の「控えめなご提案」には、多くの「アンチテーゼ」、つまり、身につまされる想いが多々ありました。当たり前のようで斬新な感がある。そんな、アート思考が問う「そもそも」というものを皆さんと共有できれば幸いです。