投資家だけが知っている 「日本人が寄付をしないワケ」
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日本でもそうですが、宗教に関する寄付というのはどの国でもあります。
というより、宗教は基本的に民衆からの寄付なしには成り立たないので当たり前のことです。
では公共の利益に対する寄付の意識が何故日本では低いのかといえば、第一に日本の宗教がある一定の時期から儀式化し、良くも悪くも宗教が公共の利益の実現から切り離されたのが一つ。
もう一つの要因としては、欧米にはローマ帝国以来の富裕層の寄付文化の歴史があるという点にあります。
最盛期のローマ帝国はイタリア本土と46の属州に6000万人以上の人口を有していました。
しかしこの広大な帝国を支える公務員は僅かに1万にほどしかいなかったと言われています。(日本の公務員数は319万人)
そうなると必然的にインフラの整備や各種行政サービスは民間に依存せざるを得ず、ローマ帝国時代の道路や競技場など今に残る壮大な遺跡は全て富裕層の寄付によって成り立っていました。
又ローマ市民権を持つものは、死んだ時一定の割合を公共の利益の為寄付しなければならないルールもありました(これが相続税の起源です)
その代わりと言っては何ですが、ローマ帝国は税率が非常に低く1%の消費税と5%の奴隷解放税以外は、10%の属州税ぐらいしかありませんでした。
つまり小さな政府がベストでカバーできない公共サービスは富裕層の寄付で賄うという歴史が欧米にはあるわけです。
一方日本の場合、五公五民という有名な言葉があるとおり、大きな政府がベストで、その代わり必要な公共サービスは国が行うべき、という発想の違いがあります。(現在の日本でも税と社会保険を合わせた国民負担率は42.8%とほぼ五公五民です)
どちらがいいとも悪いともいえない問題だと思います。富裕層の寄付に関して思うのは自衛の部分があると思うのです。
日本の場合は暴動が起きたりすることはないし、一億総中流的な意識があるので、貧しい層を助けて恨まれることを回避する必要がないようにも思えて、それが寄付をする割合が少ないことにつながっているようにも思います。
逆に富裕層になれば今の状態を維持したいからこそ、寄付をして守ろうとするとも言えるのではないかと。タイトルはさておき、造園技師本多さんの下記の言葉はとても素敵ですし、とても実感があります。
「人生最高の幸福は、社会生活における愛の奉仕によってのみ生じる。わかりやすく言えば、他人のために働くことだ」
私自身は、10代の頃の経験をきっかけに(こういうとむず痒いですが)社会の幸福のために働くことにしか興味を持てなくなってしまいました。それは必ずしもNGOで働くことを意味するのではなく、実現方法の一つが、一種のprofit sharing。
働き始めた2012年4月からPlanというNGOのchild sponsorになり、毎月6千円をエチオピアの小村の経済発展のために継続寄付し始めました(予め予算に織り込んでしまえば、手取り20万円にも満たない公務員の初任給でも払える額です)。
途中からは、世界中の女性の性的暴行からのシェルター提供や自立支援のためのプロジェクトも支援し始めました。
継続支援しているので、支援成果の年次報告書も毎年送られてきますし、何より、「支援をやめてはいけない」という責任感というか当該地域との一体感は、自己決定権の無い税金と異なり、充実感をもたらします。