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こうしたテーマを考えるとき常に思い出す話があります。

自分の身内にとても対照的な兄弟がいます。
かたや兄は東大法学部を優秀な成績で卒業し今は世界を飛び回っているビジネスマン、かたや弟は勉強に対する意欲がいつまでも湧かず、地元の(言い方が難しいですが)名前も聞いたことのない大学に入り、現在は就職浪人をしています。

一方、小学生までさかのぼると成績は弟の方がはるかに優秀でした。では何があったのか。
兄が変わったのは、中学生の時付き合っていた彼女の影響だったようです。中学生の頃から単身米国留学に出かけるほどの好奇心と行動力を持った彼女は、学問の面白さと世界の広さを彼に見せつけました。ただひたすら彼女に好かれようと努力した彼は、気がつけば彼女の背中を追いかけるあまり彼女と同じだけの視野の広さを手にし、自分の道を自分で開けるだけの能力を獲得していました。

結局人の能力を開花させるかどうかなんて色んな要素が複雑に絡み合った結果であり、それを自己責任というのは私には単なる思考停止にしか思えません。
努力できるかできないか、熱中できるかできないか、我慢できるかできないかも含めてすべて環境(私はシステムと呼んでいます)に原因があると考えて始めて次のステップが見えてくるのではないでしょうか。
IT技術がない時代であれば、ジェフ・ベゾスは大金持ちになれませんでした。

私達がアフリカの貧困国に生まれたら、生きるのに精一杯でしょう。

野球が米国で全く人気がなかったら、イチローは実業団野球止まりだったかもしれません。

マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」で、教授が「長子の方が教育面等で恵まれている。生まれた順番という偶然で」と言い、教室の学生たちに「この中で長子の人は手を上げて」と言ったら、7割以上が手を挙げました。

拙著「説得の戦略」でも書きました。

「自分が出世したのは自分に能力があったからだと考え、他人が出世したのは運が良かったと考えるのが人間です」と。

だから、間違っても出世した人に「いやー専務は運が良かったですねー」などと言ってはいけません(^^)
貧しいのは本人の所業の責任であることもあれば、生まれ持った環境や肉体的、精神的状況によることもあります。
同様に幸いにして相応の生活ができる状況にあったとしても、それは自分の能力と自己決定による所が大きい場合も、社会的環境や人の縁、更に運による所が大きいこともあります。
要は人生の幸せや不幸せがいかに決まるかには、多くの要素があり、その複合であって、議論として100か0かで判断できる性格のものではないということです。

しかし知識人というのは得てして二極対立の構図に単純化して、特定の方向に結論を誘導しようとしがちです。
本稿でも、わざわざ自己責任論を唱えるのは「エリート」だとか「資本家層」と表現し、「貧困層」と対峙させることで、この問題を二極対立の構造に見立てています。
この辺りはマルクス主義以来の知識人の悪い癖だと私は思っています。

同様に本稿では一般企業の管理職も「新中間層」と呼び、「自己責任論」が広まっていると非難しています。
具体的な統計数字が一切提示されていないので、そもそも本当に一般企業社員にまで自己責任論が広がっているのかどうかは判断がつきませんが、もしそうだと仮定するなら、それは本当に自己責任論なのでしょうか?
私にはそれは人口が減り、貧しくなる傾向にある日本にあって、一生懸命毎日働いて頑張っているのに、社会の一員として以前と比べて明らかに過剰な「共同責任」を負わされ、今後ますます重い税や社会保険負担を負わされることが疑いのない勤労層の悲鳴のように聴こえます。

社会を支えるために共同責任を負っている人達が疲弊しつつある現状。それをあたかも利己的な自己責任論の広まりとだけ論じるのは少々議論の底が浅いように私には思えるのです。
国や社会に明るい未来が見えるなら、人間は今日の共同責任の負担に耐えることができます。そうなれば共同責任の重さに堪えかね自己責任論への逃避をはかる人たちも少なくなっていくに違いありません。
社会を導くリーダーや知識人は、非難ばかりするのではなく、日本をそのような方向に導いていってほしいと私は願います。
新中間階級って、就職氷河期世代でひとまず乗り切ってきた方々からかな、と思ってます。

そして成功してきた人達が、成功しなかった方々に「努力が足りなかった」「運が悪かった」と感じ、格差が出るのは仕方ないと思う。

こうして格差が生じるのを認めさせる事で、経済成長をしてない日本という国の政策について責任転嫁する。

つまりは、国としては失策をあやふやにする為に、格差歓迎、自己責任バンザイな訳ですよね。

とことんふざけてると思いますよ。
霞ヶ関でお会いした方の中に、強烈な自己責任論者が何人かいらっしゃいました。(官庁を代表しているとは思いたくないですが)。

青春時代を犠牲にして大変な競争を勝ち抜き、東大、国一、ときて、就職するとそこにも学閥と競争社会がある。そこでも必死に頑張っているわけなのです。だから、自己責任論を持つのは仕方ないかな、とも思えました。

企業の経営者、特に創業者はリスク負って頑張ってるわけなので、それも仕方ない気もします。自尊心の裏返しだと思えるので。それでも、私が今あるのは周りのおかげ、と考える方も多いですが。

ただ私は、政治家には強烈な自己責任論は持ってもらいたくないな、と思っています。政治家は、言わば人から財産を取り上げ、別のひとに配る責任者だと思います。しかも、自分の努力はあるにせよ、選挙で選ばれるわけです。そういうひとには、選挙などを通じ、いろんなひとがいることをぜひ実感しておいてほしいなと思っています。

追記)
自分は頑張ったからここにいる、という人、頑張ったけど報われなかった人、頑張れなかった人、頑張らなかった人。いろいろいるでしょうが、その集合体が社会なのだと思います。
発達障害専門の精神科医に聞きましたが、能力が全体的に低い人が存在するそうです。

発達障害者は凹凸なので、得意不得意が激しいです。

僕は軽度の発達障害です。
発達障害者は約30人に1人の割合でいると精神科医が言っていました。

しかしそれよりも高い割合で、僕よりもミスが多い人はいます。
ADHDの診断も下りていますが、定型発達でもADHDよりもミスが多い人はいるそうです。

精神科医は、そういう人は発達障害ではなく能力が低いだけと言っていました。

これも生まれ持った能力でしょうから、可愛そうですよね。

エリートは、全体的に能力が高いですよね。

東大法学部卒の妻は、何をやらせても器用にこなし、オール4点以上取れるタイプです。

こういうエリートが自分基準で考えると、自己責任となってしまうのでしょう。

僕のような発達障害者は1と5に能力が振られています。

能力が低い人は、オール2点だったりするのだと思います。

発達障害者だけでなく、能力が低い人への社会の理解も必要だと思います。
自己責任論は、自分に対してのみ適用するべきものです。
自責の念をもって成長をするべき時にとても大事なものだと思ってます。
ただ自分以外の誰かに対して適用することがあるとすれば、叱咤激励するときのみです。この場合の自己責任論の根底は根性論なので。

社会全体が貧困化している時にその構成要素である個人が貧困化してしまう原因はどう考えても個人になんてないですよ。

誰かに自己責任論を振りかざす奴はマウント取りたいだけです。


僕自身、実家が自転車操業の自営業のため家庭環境の中で「貧すれば鈍する」ということを痛いほど味わってきましたが、これも自己責任じゃないですからね。
【編集しました】高学歴・高収入などに代表される「新中間階級」に広がる自己責任論について、その背景などを格差問題に詳しい社会学者の橋本健二・早稲田大学教授が読み解きます。牧内記者の記事です。
それでも日本は生活保護に恵まれてるし、安くて美味いものが溢れている、家賃も探せば安いところがいっぱいある。

給与水準と物価で比べると、多くの香港人なんかはもうめちゃくちゃ苦しい生活をしている。物価も高いし家賃は日本の倍以上。それでもそういう人が大半だから貧困とはみなされていない。

日本における貧困なんか諸外国からみれば全く貧困ではなくて、本当に生命の危機にさらされてるかとか、全く仕事が無いとか、そんな状況は日本には少ない。

あえていうと深刻なのは終身雇用を前提とした歯車育成の為の義務教育が根深いこと。
トヨタですらもうセーフティネットではありません宣言をしているので、広く世界を理解して全員が自分で事業を起こしたい、と思うくらいの人間形成が出来る教育に変えていかないといけない。

給料は貰うものではなく、仕事で生み出した価値を、お客さんがお金と交換してくれるもの、という本来の資本主義をもう一度義務教育で叩き込まないといけない。
サラリーマン養成所としての義務教育はもうやめよう。
生まれたときから格差は存在する。子は親を選べません。残念ながら、現実にはいい親とそうでない親がいて。毒親なんて言葉がありますが。

家族って閉鎖的なので、結局自分は親に恵まれていたとか、そうでなかったとか気づきにくいんですよね。子にしたら親は世界そのもの。それが普通だと思う。他の家庭を覗くことはほとんどできないから。そうした視点に立ってほしいと思います。