哲学者は何を語ってきたか
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この記事の続編めいたものを自分なりに補足すると、
8年ほど前に流行したマイケル・サンデル教授の白熱教室で、教授は「(現実に生きていく上では)私たちは相対主義に留まっていることはできず、何かを選ばなければならない」とした上で、社会的な意思決定における共同体の大切さを主張しました。
この主張は、その講義の手法が、様々な学生の意見を聴きながら、各自の相対的な正当性を認めつつ、議論を通じてまとめ上げていくものだったので、それ自体が相対主義から一歩抜け出す試みであり、説得力がありました。
しかし、現代においては共同体的な意思決定の土台であるべき民主主義が正常に機能していない国家が多く(過剰なナショナリズムなど)、相対主義の負の面から社会的に抜け出せていない現状があるものと思います
。ペラいインフォグラフィックで全部理解した気になれることしきり。
古代ギリシャ時代はエネルギー源は奴隷労働力で、市民は暇になって空想ばかりしていた。
人口が増えてくると土地や資源を争って戦争が増え、社会を組織化して秩序を保つために宗教が必要に。
技術の進歩と使用するエネルギー(人力、馬力から、水力、風力、そして化石燃料)の変化に伴い、工業化が始まったことで近代となり、宗教の位置付けは後退し、次第に科学主義になってくる。暇が増えた有閑層の一部はギリシャ哲学に先祖返りして、主体や責任という概念が出てくる。
20世紀以降は、ニュートン古典物理学を科学としたカントの科学観をなかなか抜け出せず、人文科学としての哲学は自然科学と没交渉に近くなってしまい、正直不毛な論争を繰り広げて来てしまった感がある。(その前の論争もある意味では不毛だが)
今や何を哲学と呼べばよいのか分からない時代だが、一応実在論や運命論など存在や確率を扱っている(らしい)ものや、加速主義など社会や経済を扱ったもの、それから主体-責任や能動受動を扱うもの、などがあるように思うが、今や人間を扱っている科学にとってはこうした論争にも殆ど答えは出ていて、解釈の仕方の余地を楽しむアートになっている気がする。
そう、「楽しめる不毛さ」こそアートとしての哲学。
ただし、繰り返し検証不可能。繰り返し検証可能な楽しめる不毛なアートが科学。その意味ではアートの対義語は、リテラリーなアルゴリズム。
次の特集では、「'使える"とは何かを哲学する」でもやってください。ソクラテスは、世間で知者とされる人々と対話をしてみて、彼らが善や正義など大切なことを知らないのに知っていると思い込んでいる、無知にいることを発見した。
そこから、「不知の自覚」を促したんですね〜
結局、不敬神の罪で死罪になってしまったのですが。
ソクラテスが述べたのは、「不知の自覚」であり、知らないものをその通り知らないと思うという自覚で、「無知の知」の、知らないことを知っているではない。
何かが欠如しているような無知という言葉は不適切だと、私も思います(*´ω`*)